aiueoworld’s 小説

藍 宇江魚の小説 エッセイ集

遠巻きの寛容 第1話「理由」

 1990年3月7日、水曜日。曇天。

神保町、時刻観書店。

 仕事で必要な本を探しあぐねた桜井祐平は、近くの若い男性店員に声を掛けた。

「はい。何か?」

「この本、あります?」

 祐平、メモ書きを彼に渡した。

「少々お待ち下さい」

 彼はすぐ戻ってきた。

「こちらですか?」

「そう」

「良かったです」

「でも、どこに?」

「本探しの達人ですから」

「探すのを手伝ってもらおうかな」

「喜んで」

 名札に清水寛人とあった。

「シミズヒロトさん?」

 苦笑し、彼は答える。

「カントです」

  これが二人の出会いだった。

            *

 居酒屋で飲んでいるとき、祐平は寛人に告げた。

「俺、実はゲイなんだ」

「やっと、告ってくれたんだ」

「えっ?」

「俺も、そうだよ…」

「…」

「祐平。好きです」

            *

 二人が一緒に暮らして、一か月が過ぎた。

「祐平。誕生日おめでとう」

「ありがとう」

乾杯の後、プレゼントの箱を開く祐平を、寛人は不安気に見守る。

「星の王子様の限定本?」

 寛人、頷く。

「ありがとう。大切にする」

            *

「星の王子様。砂漠に不時着した『僕』を本当に助けられたと思う?」

「救われたさ」

「どうして?」

「王子様の姿が消えたから」

「寂しい」

 祐平は彼を抱締めた。

「3月5日。誕生日だろ?」

「うん。でも一年近く先」

「何が好い?」

「プレゼント?」

「うん」

 彼の腕時計に触った。

「これが好い」

「これか?」

「うん」

「限定品だからなぁ」

「もう無い?」

「見つけるさ。必ず見つける」

            *

 平日の『レオン』は学生のゲイたちで賑わっていた。

「浮かない顔」

 寛人、力なく笑う。

「ケンカ?」

「ううん。祐平、優しいよ」

 渉、グラスを拭いている。

「忙しいみたい。帰りも遅いしさ」

 カラオケが止んだ。

 寛人は、カウンター席の女性客と目が合った。

 彼女は彼に会釈する。

「香純さんよ」

 寛人も無表情に会釈した。

            *

「誕生日おめでとう」

「ありがとう。プレゼント?」

「開けて見て」

「腕時計。見つけたんだ」

 祐平は頷くと言った。

「どっちが好い?」

「?」

「俺のか、それ」

「祐平の…」

 祐平は時計を外し、それを寛人の腕につけた。

「もう一つあるよ」

 サリンジャーの短編集を寛人に渡した。

「…」

「もう読んだ?」

「ううん」

「バナナフィッシュが面白いよ」

「大事にする」

            *

 …寛人。女と…

  祐平は、信号待ちのタクシーからホテルに入る二人を見つめた。

            *

 部屋の灯りをつけると、祐平がソファーに腰掛けていた。

「どうした?」

「どこに行ってた?」

「仕事…」

「楽しかったか?」

「?」

「女とのセックス」

「なに言っての?」

「昼間。偶然見たんだよ」

「見たって?」

「お前と女がホテルに入るのをな」

 祐平は寛人の胸ぐらを掴むと声を荒げて言った。

「気持ち良かったか?」

「…」

「言い訳ぐらいしろッ。で、どうだったんだ?」

 祐平、彼を激しく揺さぶる。

「どうだったんだよ。何か言えよ。おいッ」

 寛人、無言のまま涙をボロボロ流す。

「弁解ぐらいしろよ。嘘でも否定しろよ」

 祐平は、その場に立ち尽くして泣く彼にすがるように言った。

「頼むから寛人、何か言ってくれよ」

            *

 遠巻きに座る二人の沈黙を破るように寛人は、静かに告げた。

「俺たち、別れよう」

「ゆうへい…」

「もう終わりにしよう」

            *

「桜井副編集長の栄転を祝して、乾杯」

 居酒屋に歓声が響く。

「ロンドンでの新プロジェクト。頑張れよ」

 上司の若杉は祐平に酒を注ぐ。

「ありがとうございます」

「お前も遂に編集長か」

「そのようです」

 二人は苦笑する。

「こんな時に何なんだが」

「はい」

「この間、寛人君にバッタリ出くわしたよ」

 酒を飲もうとする祐平の手が止まる。

「お前のロンドン赴任を伝えた」

 祐平の表情が曇った。

「結婚するそうだ」

「…」

「そう伝えてくれと。彼に頼まれた」

「そうですか」

「余計だったな」

「いいえ」

 祐平は若杉に酒を注ぐ。

「ロンドンに行ったらゲイだとオープンにしようと思っています」

「おい。大丈夫か?」

「真っ新でスタートを切りたいので」

「無理に抱え込むなよ」

「はい」

            *

 また、祐平はその夢を見た。

広場でパントマイムを演じる大道芸の男を、観客たちが遠巻きに囲んで見ていた。

芸人の演技に観客全員が魅了されているが、誰一人として彼の足元にある帽子に金を入れようとしなかった。それは、両者の間に目に見えない空気のような存在があって、互いが触合うことを邪魔しているかのようだった。

 観客たちは、寛容にも似た眼差しでパントマイムの男を見続けるのだが、どうしても投げ銭への一歩を踏み出すことができなかった。

            *

 2020年3月。

 ウェーブ本社の海外メディア編集部は、新任の編集長の着任にざわついていた。

「桜井さんってロンドン展開を立上げ、仕切っていた人だろ」

「若杉社長がここの編集長時代の副編だって」

「元部下かぁ」

「オープンゲイ」

「パートナーは?」

「居ないらしい」

「開斗と似合いじゃねぇ」

 同期によるいつもの軽口が始まる。

「直属上司のチーフアシスタント。開斗にも春か」

「お前さぁ、それセクハラだぞ」

「冗談だって」

「冗談が訴訟になる御時世だ。懲戒で退職金パーにするなよ」

 オフィスに新任編集長が現れた。

            *

「チーフアシスタントの島村開斗です。宜しくお願い致します」

「こちらこそ」

祐平は開斗を見つめて言った。

「以前に会ったかな?」

「少なくとも会社や仕事では無いかと」

「少なくとも?」

「大学時代にゲイバーでバイトをしていたのですが知らずに見られていたらしく、よくそう聞かれます」

「それなら会って無い。30年、日本のゲイバーに行ってない」

            *

 仕事の後、祐平と開斗は居酒屋で飲んだ。

「この後、二丁目に行きませんか?」

 祐平は苦笑する。

「日本も随分オープンになったな」

「?」

「二丁目を部下から誘われようとは思わなかった」

「ゲイ同士、普通でしょう」

            *

 二人は、開斗のバイト先だった『シーモア』で軽く飲んで店を出た。

「楽しかったよ…」

 店の入った雑居ビルの前で開斗は祐平に抱きつくとキスをした。

「おい。酔ってるのか?」

「祐平。好きです」

 

(続く)

(次回アップ予定:2021.6.26)