aiueoworld’s 小説

藍 宇江魚の小説 エッセイ集

ワクワクする一歩先へ

      ええっ。肩透かしかよ

 

 小学校5年生の柊太です。

 新学期が始まった間もない頃、僕はLGBTの授業を受けました。

先生からアルファベットの意味を説明があって、『G』の意味で僕は気づかされたのでした。

 …あっ。僕ってゲイなんだ…

 周りを見ると、クラスメイトのみんなの反応はそれぞれでした。

 ポカンと口を開けたまま、先生の説明を聞いて居る子。

 でも、あの子たちはきっと先生の説明が解っていません。

 冷めた眼差し、ちょっと上から目線かも、そんな数人の同級生たち。

 あの子たち、そんなの知ってるよって先生をバカにしながら思ってる筈です。

 …関係無いし…

 最後に隣の席に座っている幼稚園から一緒の岡崎くんはニヤニヤして僕の顔をジッと見つめているので、ムッとして僕が睨み返すと前を向きました。

「みんな。LGBTは変じゃないんだよ。もし自分がそうだなって思って、悩んだり困ったりしたら先生に相談してね」

 へぇーっ。先生に相談するんだ。

 

 えっ、Gだと何か困る事が起きるの?

 困ることって何?

 相談すること、先生は知ってるのかな?

 だったら先生、アルファベットのどれかなの?

 先生は男だからLじゃ無い気がするけど。

 

 G?

 B?

 T?

 

 ただ、ひたすら僕の頭の中で巡り続ける疑問の無限ループ。

 我慢できず、僕は先生に何となく質問します。

「先生はGかBかTのどれかですか?」

 教室、一瞬でシーン。

 質問に少し困った様子で僕を見ながら先生は答えました。

「どれでもないよ。先生は普通だよ」

 先生がそう答え、ソワソワ騒ぎ出すクラスのみんな。

 隣の岡崎くんを見ると『しょうがないねぇーなぁ』って感じだけど、愛と憐れみとの入り混じったような上から目線で僕をジッと見ているのでした。

 クラスの雰囲気が少し微妙だったので、僕は明るくお道化ながら言いました。

「だよねー。先生はそんなんじゃないよね」

 クラスのみんなの爆笑で事なきを得ました。

 でも、この時の様子からゲイだってバレると良くないんだと直感しました。

 その日を境に僕はノン気を装って用心深く毎日を過ごすことになるのですが、バレたらどうしようとか、好きな男子に好きと告れない欲求不満、ゲイだから自分に何か禍が降りかかるんじゃ無いかというネガティブな妄想が膨脹し続けることになります。

 そしてオナニーを覚えてからは、それに一層の拍車が掛かる毎日となりました。

          *

 中学に入ると、周りの連中は誰も彼も色気づいて異性の話で大騒ぎです。

 みんな、素直に楽しそう。

 でも僕は、そんな彼らと話しを合わせるのに結構疲れます。

 悶々と続く欲求不満。

 つくづくゲイなんて嫌だと思うけど、ゲイはゲイなんですよねぇ。

 

 …一人孤独に悶々とする循環サイクル。いつまで続くんだ…

 僕の溜息。

 …僕だって素直にアイドル話で盛り上がりたい。アイドルは男だけど…

 僕のボヤキ。

 …そんな会話で盛り上がれる友達、欲しいなぁ…

 僕の切実。

 …居たとしても、僕が嫌いな奴だったら出会いたくないな…

 僕の上から目線。

 …そうか。この悩みを先生に相談すれば良いのかぁ…

 僕のグッドアイデア

 …でも秘密を知られて変なことされたらどうする…

 僕の妄想。

 …万一そうなっても好い、タイプの先生って。うーん、皆無…

 僕の勝手な選別。

 

 あぁ。ダメだ、ダメ。

 このネガティブな循環サイクルを断たないと、僕の人生は真っ暗だ。

 現在の僕に一番必要なことは『自分の変革』。

 そう、日常の何かを変えて『一歩、踏み出す』、これが必要なんだ。

 それで僕は、決心したのでした。

 …カミングアウトする…

 先ず家族からだ。

 木曜日。

 珍しく家族全員が揃った夕食のあと、僕は両親に話し始めました。

「パパとママに話したいことがあってさ」

 うん、という感じでパパは僕を見ています。

 ママは、弟がこぼさないように食べさせながら僕をチラ見。

「実は、僕…」

 両親は黙って僕を見つめます。

「僕さぁ。ゲイなんだ」

 僕の顔をポカンと見つめる両親。

 幼過ぎる妹と弟、食後のプリンに夢中。

 長い長い沈黙のあとで父が言いました。

「へえー。そうなの?」

 続いて、母。

「近頃、珍しくないわよ。元気出しなさい」

 それで、終わりました。

 その後、父はスマホで仕事の報告確認を始め。

 母は食事の後片付け。

 妹はタブレット端末でゲームに熱中。

 弟はテレビでお気に入りのアニメに夢中。

 僕はダイニングテーブルに一人残されて、ぼんやり思いました。

 …えっ。これで終わり…

 こうして僕の人生初の重大告白は、見事な肩透かしで終わったのでした。

 

      ゆるく拍子抜けの日々

 

 僕は、家族の次は友達だと覚悟を決めたのですが、いざ友達を前にすると中々言い出せるものではありません。

 話す機会を逃して迎えた週末。

 僕は、自分の不甲斐なさで落ち込み悶々と過ごしました。

 月曜日の朝。

 僕は目覚めたとき、何の根拠も無く決断しました。

 …昼休み。僕は絶対カミングアウトする…

 親友の岡崎ら5名が女子ネタで騒いでいたのでさり気なくそれに加わり、僕は話す機会を待ちました。

 女子ネタが途切れ、満腹の睡魔で連中に忍び寄り場がまったりしました。

 …絶好のチャンス…

 そして遂に、僕は切り出したのでした。

「あのさぁ。みんなに話しがあってさ」

 眠そうな五人を代表して、岡崎が返事をします。

「なに?」

「実は、俺さぁ…」

「…」

 僕を見つめる岡崎の瞼は、他の連中と同様に今にも閉じてしまいそうです。

「実は俺、ゲイなんだよね」

 眠そうだけどキョトン顔の五人が僕を見つめます。

 白々とした雰囲気。

 ドキドキする僕。

 全て想定通り。

 そんな沈黙を破ったのは、岡崎でした。

「それで?」

「だ、だから。俺。ゲイで…」

「そんな事かよ」

「えっ。だってゲイなんだよ」

「今どき。珍しくねぇーし」

「…」

 五人の内、二人は突っ伏して眠り。

「それにさ」

「なに?」

 溜息混じりに岡崎は続けます。

「もう。みんな知ってるよ」

「えっ。何で?」

「俺がバラしといたから」

 僕は、アウター岡崎を唖然として見つめます。

「俺の弟とさぁ、お前の妹って幼稚園が一緒ジャン」

「?」

「お前の妹。幼稚園で無邪気にバラしてたぜ」

「嘘ッ…」

 大欠伸の後、岡崎は続けます。

「弟から聞いて。やっぱりなって思ったよ」

「やっぱり?」

「お前さぁ。幼稚園で俺の手、ずっと握ってたろ」

「…」

「そのこと話したら。みんな納得してた」

 四人、頷く。

「まぁ気にしなくて良いんじゃね。みんな、それほど関心ねぇーから」

 午後の授業の始まりを告げるチャイムが教室に鳴り響くでした。

 

      緊急事態宣言発令かよ

 

 4月から僕は高校生となりました。

 何故か岡崎も同じ高校に入り、クラスまで一緒でした。

 腐れ縁です。

 部活を決めようと言う頃に僕は、一緒に美術部へ入部しようと岡崎から執拗に誘われます。

 奴の目当ては美術部の女子たち。

 僕は、奴の魂胆を隠すカモフラージュ。

「柊太って、女子興味ゼロじゃん」

 ムカつくけど、正しい。

「だから美術部の女子の取り合い起きないし」

 浮かれる、岡崎。

「でも俺、バスケとかサッカーの方が…」

「無理無理」

「決めつけるなよ」

「運動神経。持久力。ともに女子興味と並んでゼロじゃん」

 悔しいけど、納得。

「まぁさ。見学だけでも良いから付き合えよ」

 渋る僕を拉致した岡崎によって美術室へ連れて行かれたのでした。

          *

 美術室出入り口に設けられた入部見学者の受付席。

 僕はそこで、三年生の三上先輩と運命の出会いをしたのでした。

 …うわぁ。メチャタイプ…

 三上先輩が僕らに美術部の説明をしてくれました。

 先輩に見とれている僕。

 岡崎ではなく、僕に熱心な説明をしてくれる三上先輩。

 僕と岡崎先輩に挟まり、僕ら二人の世界を呆れて見続ける岡崎。

「柊太さぁ。絵を描くのは初めて?」

「えっ。あ、はい。初めてです」

「入部したら、俺がちゃんと教えてやるから」

「えっ。本当ですか?」

「もちろん。だから入部しなよ」

「えっ。でも…」

 僕は、お約束の躊躇う素振りをしながら岡崎を見て。

「岡崎。どうする?」

「はっ?」

 岡崎、素っ頓狂な声。

「お前、入部するだろう?」

 コイツなんだよ、と言う感じの眼差しで岡崎は僕を見ます。

「岡崎。一緒に入部しようよ」

「まぁ。良いけど」

 こうして僕と岡崎は、美術部へ入部したのでした。

          *

 翌日の放課後から、三上先輩によるワンツーマン指導が始まります。

 二人の世界に誰も何も言えません。

 僕の初恋。

 ちなみに岡崎は二年生の中でも比較的可愛い浅田先輩の指導を受けて、何だかウキウキしているみたいでした。

 ある日の放課後。

 岡崎は用事で部活を休み、僕は岡崎先輩と二人で絵を描いていました。

「柊太ってさぁ、岡崎と仲いいよな」

「そうっすか?」

「ひょっとして付き合ってる?」

「まさか。幼馴染ですよ」

「そっか。ところで柊太、好きな人とかいる?」

 僕は、三上先輩をガン見しました。

 先輩、と言うより早く告られてしまい。

 …それで先輩。熱心に教えてくれたんだ…

 そして、僕らは付き合いました。

 でも結局、僕と先輩とはキス止まりで終わっちゃいました。

 別れた理由ですか?

 きっと、僕が絵に夢中になり過ぎたからですね。

 …絵って、自由に自分を表現できる…

 そう気づいたら、止まんなくて。

 先輩も受験で部活引退し、会う機会も減って。

 自然消滅してました。

 別れた痛手より、絵を描く悦びの方が勝っちゃたんですね。

 それまでは、自分と周囲が何となく噛合わなくってもどかしかったんですね。

 カミングアウトでは、親や友達の無関心で肩透かし。

 ゲイだからといって恐れ慄いていたイジメにも遭うことも無く平和に過ごせ。

 挫折も無く。

 平穏で順調な毎日。

 不満や不足もないけれど。

 三上先輩ともラブラブで幸せいっぱい。

 でも、心に拭い切れない違和感を覚えてしまう。

「じゅあ。毎日が楽しくないわけ?」

 岡崎にそう聞かれ、僕は答えます。

「楽しいよ」

「なら、好いじゃん」

「そうだね」

 『問題無しッ』って笑顔を浮かべて僕は岡崎との会話を終えるのですが、本音は無性にイライラしてしまう。

 真綿に包まれて心地好い日々だけど、気がつかない内に真綿に絞め殺されてるんじゃないかなんて恐怖と不安に駆られもする。出口の見つからない荒野を彷徨い続ける不快ってこんな感じなのかなと思ったりもします。

 でも絵を描いている時、僕は解放され自由になれました。

   高校二年生の春、僕の絵が市主催の絵画展で入選しました。

賞を取れたことは素直に嬉しかったけど、それ以上に僕の作品に対する反応があったことが、誰かが自分に向き合ってくれているような気がしてホッとしました。

 それで僕は美大への進学を決めたんです。

 入選を祝う食事を家族で過ごしていた時、僕は美大志望を両親に言いました。

 …すんなりOKだよね…

 気軽に考えていた僕の予想は見事に外れ、それこそ緊急事態宣言発令クラスの反対に遭うのでした。

 反対する中心人物は父です。

「ダメだ」

「何で?」

「才能ない」

 父の一方的な否定に、僕はカチッと切れる寸前。

「才能ないって何で判るわけ?」

「判る」

「無関心なくせに」

「何ッ」

「カミングアウト。スルーしたよねッ」

「…」

「無関心が、勝手なこと言うなッ」

 にらみ合う僕と父。

「他の学部にしろ」

 父親は二階へ。

 母親は無表情。

 弟と妹は震えてました。

 

      時には逃げるのも大事

 

「期末試験も終わったなぁ」

隣りで座る岡崎が、描きながら話しかけてきました。

「そうだな」

 僕は、何だか気も漫ろです。

「来週から夏休みだぜ」

「だな…」

 心の中で溜息をつく、僕。

「柊太さぁ。夏休みどうすんの?」

「別に。普通だけど」

「進路の事で親父さんと揉めてるって?」

「えっ?」

 …何で知ってる…

「家の雰囲気。気まずいらしいじゃん」

 弟と妹の顔が真っ先に浮かびました。

 …どっちが言いふらした…

「平気さ。単身赴任中で家に居ないし」

 強がって言いはしたものの、僕が家で浮いることは否めません。

「ウチへ逃げて来ても良いぜ」

「はぁ?」

「時には逃げるのも大事じゃん」

 僕は、岡崎の顔を穴が開くほど見つめてしまいました。

 今まで気づかなかったのですが、岡崎に関してあることに気づきます。

 …こいつ、意外と美形かも…

 なんだかヤバい雰囲気。

 それもあってか、僕は思わず言ってしまいました。

「口説いてる?」

 岡崎は僕をジッと見つめると静かに告げました。

「違うな。腐れ縁の誼で心配してるだけさ」

「そっか」

 期待はしないものの、ちょっとガッカリした僕でした。

          *

「亮子さんの家に行ってくれない?」

 夏休みが始まって間もなく、僕は母親から言われました。

亮子さんとは盛岡で一人暮らしをしている母方の祖母のことです。

 母は昔から祖母を亮子さんと呼んでいて、僕もそう呼んでいます。

「亮子さん。どうしたの?」

「足を挫いたらしいのよ」

「えっ」

「本人は大丈夫って言うけど、いつもの強がり,ね」

 母には厳しい祖母も僕には優しいです。

 夏休みになると、長い時で一ヶ月、短い時でも一週間ほどを祖母の家で過ごすことが毎年の恒例で、八月のお盆時に行ってました。

「来年、受験で行けないでしょ」

 母は、それと無く僕を亮子さんの家へ差し向けようとしているのは解ります。

 …時には逃げるのも大事…

  ふと、岡崎の一言が過りました。

「亮子さん。きっと喜ぶわ」

 こうして僕は、少し早めではありますが夏休みを盛岡で過ごすことにしたのでした。

          *

「スイカ切ったから食べない?」

 キャンバスを置いたイーゼルの横で昼寝中の僕を、亮子さんはそう言って起しました。

「冷えてるかしら?」

 僕の様子を覗う亮子さん。

「うん。美味しい」

「そう。良かった」

 亮子さんは、僕の描きかけの絵を繁々と見て尋ねます。

「庭の絵ね」

「うん」

「上手ね」

「そう?」

 内心嬉しいくせに、わざと素気なく振る舞う僕。

「去年より上手くなったんじゃんない?」

「そうかなぁ…」

 僕は笑顔で答えた。

「そうそう。これ、行ってみたら」

 亮子さんは、僕に絵の展覧会のチケットを差し出しました。

松本竣介回顧展?」

クリーニング屋さんで貰ったの」

「亮子さん、行かないの?」

 縁側の向う側で夏の太陽に照らされてギラギラ輝く庭を、亮子さんは眺めた。

「暑いじゃない。あたしは遠慮しとくわ」

 そう言って、西瓜を美味しそうに頬張った。

 渡されてチケットを見ている僕に、亮子さんは続けて言った。

「その絵描きさん、盛岡にゆかりの画家なんですって」

 

      本当にやりたいのかよ

 

 その日は盛岡にしては珍しく猛暑でした。

県立美術館へ向かうバスで、僕は松本竣介についてスマホで調べました。

 

・戦前から終戦直後にかけて活動した画家

・旧制中学に入学した13歳の時に聴力を失う

・都会風景を好んで描いた

・代表作『街(1936年)』『立てる像(1942年)』『Y市の橋(1943年)』

・1948(昭和23)年6月、結核により逝去

・36歳

 

 僕→岡崎:SNS開始。

『画家の松本竣介。知ってる?』

『知らん』

『そう』

『なんで?』

『回顧展。観に行く』

『盛岡?』

『県立美術館』

『盛岡生まれ?』

『育ったらしい』

『ふーん。興味あんの?』

『チケット。亮子さんに貰った』

(NO反応)

(2分40秒経過)

(返信あり)

『松本さんの絵。好きだな』

『マジ?』

『何が?』

『お前が他人の絵を褒めた』

『柊太の絵を褒めないだけだ』

『失礼な』

『でもさ。きっと柊太、気に入るよ』

松本竣介の絵?』

(頷くコアラキャラ)

『なんで判る?』

『判るさ』

『?』

『腐れ縁だもん』

『はぁ?』

『間違いない』

 僕→岡崎:SNS終了。

 灼けるような日差しに輝く車窓を過る景色は見ていると目が痛くなりました。

          *

 来場者は意外と少なく、僕は絵をゆっくり観て回れました。

初期代表作の『街』や晩年の代表作である『Y市の橋』を見た後、最後の部屋に展示されている『立てる像』を観ました。

僕はその作品にすっかり魅了されました。

曇天の昼空の下に広がる都会と道。

その真ん中で大地をどっかり踏みしめ立つ青年。

強い意志を感じさせる眼差し。

 絵の傍らに一編の詩が掲示されていました。

 

『絵筆をかついで

 とぼとぼと

 荒野の中をさまよへば

 初めて知った野中に

 天に続いた道がある

 自分の心に独りごとをいひながら

 私は天に続いた道を行く』

 

「これは、松本竣介が16歳の冬に書いた詩です」

「えっ」

「あっ。ごめんね。急に話し掛けちゃって。学芸員の日村です」

「あぁ。僕、中村柊太です」

「詩。気に入りました?」

「はい。元気が出ます」

「彼の決意が伝わったかな」

「決意?」

「詩を書いた翌年。中学を退学して彼は画家への道を進んだんですよ」

「スゴイ…」

「うん?」

「自分の年齢と大して違わないのに自分の進む道が決まってるなんて。羨ましい」

「さぁ。それはどうかな」

 日村さん、『立てる像』を見ながら。

「彼は、音を色でしか伝えられない世界に生きていたからね」

「色だけの世界ですか?」

「そう。だから、絵だけが自分を伝えられる唯一の手段だったんじゃないかな。彼にとって絵描きになることは一番現実的な選択だったんだと思うよ」

 …俺って、何で美大を志望したんだっけ…

 何故かその時、僕はそんな風に感じたのでした。

 日村さんは続けて言いました。

「絵でなら自分らしく何かを出来ると、そう思ったんじゃないかな」

「どうして、そんな風に思えるんですか?」

「多分、自分を信じると決めたんだろうね」

 僕は『立てる像』を見ました。

「この作品からも彼の決意が感じられるんだ」

「決意?」

「生きてる限り、自分の絵を描くことを止めないぞってことかな」

「戦争中だったんですよね?」

「戦争を止める理由にしてたまるかって、そう思ったんじゃない」

 

      僕の視界が開けたとき

 

 美術館から戻ると、居間で亮子さんは絵を見ていました。

「あら。お帰りなさい。楽しかった?」

「うん。勉強にもなったし」

「そう」

 キャンバスに描かれている女性を指さして、僕は訊きました。

「この人、誰?」

 亮子さんは悪戯っぽく笑って言った。

「誰かに似てない?」

 見覚えのあるような、でも誰かは判然としません。

「綾乃よ」

「えっ。ママ?」

「昔は可愛かったんだけどね」

 屈託なく笑う祖母の隣で僕は、絵のサインに目を止めます。

「K・NAKMURAって誰?」

「あら嫌だ。克彦さんのことじゃない」

「ええッ」

「あなたのパパ。画家志望だったのよ」

 仕事中毒の父しか知らない僕にとって、それは驚愕の事実でした。

「才能あり。展覧会で入選し。有望だったの。でも、事情があって断念したの」

「…」

「知らなかったの?」

 僕は黙って頷きました。

「克彦さんって、プロの世界の厳しさを解ってた人だから。猛反対したのね」

父の絵をジッと見つめている僕へ亮子さんが言います。

「自分の人生よ。ちゃんと自分で決めなさい」

 

      描くのに理由必要かよ

 

 母→僕:SNS開始。

『えっ。マジ?』

 父が盛岡に来るらしい。

『日帰り出張ですって』

 返信に窮しました。

『良い機会よ。二人で話して』

 母→僕:SNS終了。

          * 

 結局、僕は父と県立美術館で会うことになったのですが、ぎこちない親子関係はそのままです。父が二人分のチケットを買い、僕らは中に入るのですが他人のように別々に絵を観ました。

 でも、とうとう『立てる像』の前で鉢合わせとなります。

 その絵の前で僕と父は不自然な沈黙で鑑賞するのでしたが、不意に父が言いました。

「懐かしいなぁ」

 それは、初めて目にした父の表情でした。

「好きなの?」

「この絵を見たくて神奈川の美術館に通ったよ」

「そうなの?」

「若い頃の話だけどな」

 そして僕を見て言いました。

「無関心では無かったんだ」

「えっ?」

「カミングアウトの時さ」

「じゃあ、何?」

「どう向き合ったら良いのか分からなかった」

「…」

「何しろ、初体験だったし」

 済まなそうな顔つきで、父は続けた。

「ごめんな」

「初体験って言うけど。意味が違う気がするんだけど」

「そっか…」

 どちらも、苦笑いです。

 父はまた、『立てる像』に目を向けました。

「父さん。美大で勉強してたって?」

「亮子さんから聞いたのか?」

「うん。事情があって諦めたって」

「事情か。やっぱり亮子さんは優しい人だ」

「違うの?」

「行き詰ったんだ。それで諦めたんだ」

 そう言う父の横顔は、不思議と淋しそうではありませんでした。

「もう描かないの?」

 その問いに父は答えず、逆に聞かれました。

「絵は好きか?」

「好き以上かな」

「?」

「僕を説明するに最適な手段だから」

「そっか」

 そして父は、ふと呟きました。

「絵を描くことを止める理由もないよな」

 『立てる像』を観る父の眼差しは、いつになく穏やかでした。

 

      ワクワクする一歩先へ

 

 僕は、美大の合格発表者の中に自分の受験番号を見つけた。

 …合格した…

 嬉しさに酔いしれる僕の肩を、誰かが叩きました。

 振り返ると、そこに岡崎が居ました。

「よッ」

「な、何で、お前がここに居るの?」

「そりゃぁ、ここに合格したからな」

「はぁッ?」

「どうやら俺たち、もう四年間一緒らしいぜ」

「ふんっ。同じ大学ってだけで学部とか違うだろ」

 嫌な予感を覚えつつも、僕は強がって見せます。

「学部。一緒だぜ」

「えっ…」

 予感的中です。

「柊太と一緒に勉強できる。ワクワクするよな」

 岡崎は、ベタベタと僕の肩に手を回そうとします。

 僕はそれを撥ね退けて言いました。

「するかッ」

 ニヤニヤ笑う、岡崎。

「つれないなぁ」

「うるさい」

「ヨロシクな。俺の腐れ縁。柊太」

          *

 僕→母:SNS開始。

『合格したよ』

『おめでとう。良かったわね』

『父さんは?』

『自分の部屋に籠ってるわよ』

『仕事?』

『いいえ』

『ゲーム?』

『違うわよ』

『?』

『絵を描いてるわ』

『そうなんだ』

『どうしたのかしら。ずっと止めてたのに』

『知らない』

『(笑)』

『じゃあ、父さんに云っといて』

『何を?』

美大に合格したって』

『嫌よ。自分で言って』

『それなら帰って言うよ』

『今、電話すれば良いじゃない』

『邪魔したくない』

『そんなこと言って』

『絵、観て帰る』

『えっ?』

『夜、ちょっと遅くなるかも』

『お祝いの夕飯を支度してるのよ』

『それまでには戻るから』

『美術館、東京?』

『神奈川』

 僕→母:SNS終了。

          *

 僕は、神奈川の美術館へ『立てる像』を観に行きました。

 本当は一人で観るつもりが、どこからか湧いて現れた岡崎と観るハメに…。

          *

 絵の傍ら添えられた作者のコメントにはこうありました。

 

『絵を描くことが好きでありながら、

 画家になる望みを一度も持たなかった僕が、

 十四歳で聴覚を失い、

 この道に踏み迷い十五年の迂路を経た今日、

 やうやく、

 絵画を愛し、

 それに生死を託することの喜びを知り得たといふこと。

 それが、

 今、

 言い得る唯一の言葉です』

 

 …今日から、僕のワクワクする一歩先が始まる…

 絵を前にして僕はご機嫌です。

 そんな僕へ岡崎が話しかけてきます。

「なぁ。この絵の顔、柊太に似てねぇ?」

 …もう。折角の好い気分が…

「そう?」

「だから俺、この絵が好きなんだね」

「?」

 ふと見ると、岡崎は僕を見つめています。

「柊太のこと。好きだよ」

「!」

 …なんで。今、告る…

「あぁ。やっと告れてスッキリした」

「?+?」

 …僕はモヤモヤなんだけど…

「柊太。俺のこと好きだろ?」

「…」

 岡崎の真剣な眼差しに僕は金縛りです。

「まぁ。好きだけど」

 …いいや。その。好きは、好きだけど。その好きとは違って…

「俺たち付き合おうッ」

 僕の返事より先に岡崎は、僕を抱締めました。

 奴の体温が何だか温かく。

 バク打つ彼の心臓の鼓動が、僕の胸に伝わります。

 岡崎にギュウされると身体の力が何だか抜けて。

 僕は苦笑です。

 立てる像に目をやると、それまで遠くを力強く見通すような眼差しが僕らを呆れてみる眼差しへと変わったように見えて。

 ふと、僕は思うのでした。

 …ワクワクする一歩先って、予測不能だわ…

 岡崎のギュウが更に強まって。

 僕もまた、奴をギュウするのでした。

 …まぁ、それも好いっか…