aiueoworld’s 小説

藍 宇江魚の小説 エッセイ集

遠巻きの寛容 第4話「告白」

 体調不良を理由に長期休暇を取った開斗が出社をしなくなると、祐平に対する妙な噂話が社内で一気に広がり始めた。

 そんな矢先のある日、祐平は若杉と飲んだ。

「島村と連絡は?」

「休暇届けのメールが最後です」

「メールってお前、一緒に暮らしてるだろう」

「彼とは別れました」

「いつ?」

「先週末です」

 祐平、若杉をジッと見つめる。

「何だ?」

「ご存知だったんですか?」

「何が?」

「彼が寛人の息子だと」

 若杉、少し間を置いて頷く。

「いつ頃からです?」

「就活で我社に来た頃」

「随分前からですね」

「彼の母親から我社への就職の件で相談されてね」

「島村香純?」

「古くからの友人。…学生時代に付き合っていた俺の彼女だよ」

「何故、黙っておられたんですか?」

「言う必要があったか?」

「いいえ」

「何かあるのか?」

「幾つかの噂は随分昔に関する物でした」

「そのようだな」

「情報の出所にお心当たりは?」

「無い」

 若杉は酒を飲み干して言った。

「桜井。俺は、お前に『慎重に』と忠告したはずだ」

「はい」

「今も昔も俺はお前の見方だ。それだけは忘れるな」

            *

 若杉と別れた後、祐平はシーモアで一人飲んだ。

「今日のお客さん、祐平さん一人なのよ。スマホは家で見なさい」

 シュンスケはスマホを見続ける祐平に言った。

「そうだな」

「早く仲直りしなさいよ」

「そう簡単でもない」

「まだ好きなくせに」

 祐平、失笑。

「どうしてそう思う?」

「過去から直前までのSNSを何度も見ているから。それって確認でしょ」

「?」

「自分たちは間違っていなかったって」

 祐平は静かに言った。

「感じの悪い店だ…」

            *

 深夜。

 自宅に戻った祐平は、書斎で星の王子様のページをめくる。

 溢れる涙を拭うこともせず、彼はページの一枚一枚を指先で撫で続けた。

            *

 病室で眠る、寛人。

 祐平はベッドサイドから彼の寝顔を見つめた。やがて、ディスプレイ画面脇に置かれたサリンジャーの短編集に気づくとそれ手に取った。

 ディスプレイ画面に文字が、突然表示される。

『祐平』

 寛人、祐平を見る。

『どうした?』

「会いに来た」

『見舞いだろ』

 祐平、苦笑。

 ディスプレイ画面に『笑』の文字が表示される。

「笑?」

『文字でしか感情表現ができない。悪いが慣れてくれ』

「ネットでの会話と同じだな」

『SNSか?』

「知ってるの?」

『開斗から聞いてる』

「そうか。良い息子だな」

『惚れたろ』

「黙れ」

『笑』

「何があったんだ?」

『話すと長いよ』

「いいよ。時間はたっぷりある」

            *

『お前に捨てられた後、香純と結婚した』

「捨てられたって酷くないか?」

『笑』

「上司からロンドン発つ前に聞いた。お前、渋谷で若杉さんと偶然会ったろ?」

『偶然かぁ。そう言えなくもないか』

「違うのか?」

『まぁ、良いさ。香純と結婚して3年目に開斗が生まれた』

「うん」

『俺と香純のセックス。一度だけだった』

「えっ?」

『2度目の結婚記念日の夜。その時だけさ』

「開斗はお前の子だろう?」

『それは間違いない。俺のヒット率って中々だろう』

 祐平、苦笑。

「だったら、あの夜は?」

『彼女を慰めていた』

「?」

『当時香純は、不倫で悩んでた。相手は、若杉三郎さ』

「不倫の噂。本当だったんだな」

『彼女、精神的に不安定で放って置けなかった』

「何故、それを俺に言わなかった?」

『お前が信頼と尊敬を寄せる上司の事だからな』

「お前の言葉を信じないと思ったか?」

『無理だろうなって。自信がなかった』

「それで何も弁解しなかったのか?」

『うん』

 祐平、寛人の額に手を当てる。

『悔しい』

「うん?」

『掌の温もり。感じることが出来ない』

祐平は、彼の眉を親指で撫でた。

『会いたかった』

「俺も。やっと会えた」

           *

『あの頃。心を閉ざしてたな』

「無自覚だったけどさ」

『ゲイがバレたくないから心を閉ざすのが自然な振る舞いになる。俺もそうだったよ』

「常に何かに怯え、悟られまいと必死だった」

『そうだね』

「関係が壊れ、失い、存在を否定されるのが怖かった」

『だから、在りのままの自分を隠蔽してた』

「それに長け過ぎて自覚も麻痺してたさ」

『俺。心が蝕まれそうな祐平を救いたくて必死だったんだ』

「でも俺は、寛人を傷つけた」

『まったくだ。笑』

「星の王子様の意味にも気づけなかった」

『あれ。祐平の孤独への宣戦布告だったんだけどなぁ』

「スマン」

『近づくほどに祐平は心を閉ざし。俺、途方に暮れたよ』

サリンジャーの短編集。最悪だったな」

『バナナフィッシュが面白いよって言われて、言葉失ったもん』

  祐平、苦笑。

『眠っている妻の前で自殺する主人公が自分と重なって。もの凄く傷ついたから』

「ごめん」

『編集者失格だよ』

「まったくだ」

『笑』

 寛人、祐平を見つめる。

『でも、その短編集に救われたんだ』

「救われた?」

『うん』

            *

『開斗の誕生は物凄く嬉しかったけど、香純への気持ちはどんどん冷めていった』

「何故?」

『俺もまた、彼女に心を閉ざしたから』

「…」

『俺たち、一人ぼっちが嫌で結婚したんだ。香純は俺に寄り添うことで心の穴を埋められたけど俺はダメだった。祐平のことを忘れることができなかった』

 寛人の眼球が激しく動く。

『開斗が生まれて、俺はホッとした。これからは、開斗が俺の代わりとなってくれると。開斗は誰より大切で愛おしかったけど、俺にとって香純の寄り添いは負担で苦しかった。俺は家を空けることが多くなって、生きてるのが奇跡と思えるほど荒んだ生活を送った。見兼ねた香純の両親が離婚を勧めた。開斗の親権で揉めて。離婚調停で負け、親権者は香純と裁定されて離婚した。開斗が四歳の時だ。あの事故は俺が家を出た日に起きた』

 寛人、遠い眼差しで続ける。

『車で帰る途中だった。カーブが続く下りの山道で、ブレーキが急に利かなくなった。自分の車線は崖沿いで乗り上げる場所もない。加速で曲がり切れず崖下に転落した。目覚めると病院だった。車は大破したが爆発炎上はなく俺は幸運にも死なずに済んだが脊髄損傷で全身不随となった』

 祐平、寛人の顔を見つめた。

『一日が長いんだ。夜は特にそう感じる。だから昼間、眠らないように気をつけてる。昼の光は夜の闇よりも遥かに残酷でさ。闇は意識を溶かしてくれるけど、全てを見せる光の世界は、時が止った様に目に映る。辛いよ。変化が欲しい。停止の連続を忘れたい。それを叶えてくれたのが、開斗の成長とあの短編集だった』

 寛人の目が光る。

『開斗は、生きる活力だよ』

「開斗は解かるけど、短編集は?」

『お前と別れた後、何度も捨てようと思った。でも出来なかった。時計とその短編集が、お前との唯一の繋がりだったから。あの事故で時計は失われてからは尚更だ。俺を傷つかせた一冊だけど、それだからこそ、その本を見ているとお前との日々が鮮明に思い出される。それを眺めているだけで、地獄を忘れることができた』

「ずっと病院暮らしなのか?」

『入ったり、出たりの繰り返しさ』

「病院以外でのお前の世話は誰が?」

『開斗と香純がしてくれてる』

「離婚したのに?」

『変か?』

「開斗は分らなくもないが、香純さんはどうなんだ?」

『あの事故がブレーキ欠陥によるものと判り補償が支払われることになり、それは今も続いている。入院費や開斗の養育費も全てそれで賄われた』

「介護は金目当てか?」

『どうかな。だが、彼女の介護は献身的だよ。誰が何と言おうと疑う余地はない』

「そうか」

『罪の意識を感じるよ』

「彼女や開斗にか?」

 寛人の視線が宙を泳ぐ。

『あれは事故なんかじゃない』

「うん?」

『ブレーキの効かない車に身を任せて突っ込んだのさ』

「どういうことだ?」

『自殺を図ったんだ。でも死ねなかったよ』

 寛人は続けた。

『天罰かな。自ら命を絶つことも叶わない身体に絶望した。だがブレーキ欠陥と補償の話を聞いた俺は、補償に自分の生存意義を見出した。俺が生き続ける限り香純と開斗の生活は保障される。だから、俺は真実を自分の心の奥底に隠蔽した。詐取かな。軽蔑したろ?』

「俺も同じことをしたさ。ただ一つを除いて」

『一つ?』

「俺なら。隠蔽を墓まで持って行く

『確かにそうだ。笑』

「でも嬉しいよ」

『何が?』

「二人だけの秘密が増えた」

『笑』

 祐平も笑った。

            *

『献身的だったから、介護は彼女の負担だった。他人に言えない悩みや葛藤も多く、いつしか彼女は心の内を開斗に聞かせて解消した。何気ない愚痴も、開斗にとっては母の苦しみと映った。やがて開斗の中でそれが、お前に対する歪んだ恨みへと変わっていったんだ』

「お前が開斗にシーモアを教えたか?」

『うん。あいつが高一の時にゲイだと打明けられた。大学に入り、ゲイバーに行ってみたいというからシーモアを紹介した。バイトを始めたあの子が、そこで出会った渉さんからお前のことを知ろうとは夢にも思わなかったよ。それが目的だったんだろうな』

「巡り合わせさ。お陰で俺は、開斗に出会えたけどね」

『嫉妬』

「息子に焼き餅妬いてどうする」

『笑』

 祐平、苦笑。

『あとはお前も知る通りだ。でもあの子は、かなり苦しんでいた』

「?」

『欺いて近づいたが、お前を好きになった。陥れたい気持ちと、お前に惹かれる気持ちの間で揺れて悩んでいたんだ。そんな息子を慰めることも出来ず、もどかしさと不甲斐なさで随分と苛立たされたな』

「諭して止めろよ」

『この身体でか?』

 祐平、苦笑。

『お前の書斎で開いた星の王子様はどのページも手垢で汚れていた。その時、お前の孤独や苦しみが解かったと。それで許せたと』

「星の王子様に救われたか」

『だが皮肉にもお前を許した時から、新たな苦悩が始まった』

「忙しいやつだ」

『お前を欺き陥れる目的で近づいた事実は消せない。真実を知ったお前に捨てられる恐怖であの子は怯えていたよ。お前との日々が幸せだったから、絶対に失いたくなかったんだろうな』

「…」

『お前や俺だから。あの子の怯え、隠蔽が明るみになる怖さがどんなものか解るだろ』

祐平、寛人を見つめる。

『お前が開斗に別れを告げた時、30年前の自分と開斗が重なったよ』

「起きてたのか?」

『うん』

「狸オヤジめ」

『笑』

寛人、祐平をジッと見る。

『今の俺たちに一番必要なのは、本当の寛容じゃないのか?』

 祐平、深いため息を漏らす。

「遠巻きではない本当の寛容か」

 見つめ合う二人。

『だから開斗を許してやって欲しい』

            *

 長い沈黙の後、祐平が言った。

「また会いに来るけど良いよな?」

『笑』

「いつでも会えるよな」

『祐平』

「…」

『俺の手を握って』

 手を握られた寛人は目を閉じる。

『昔のままだ』

「寛人もな」

『祐平』

「うん?」

『開斗を頼んだぞ』

 二人、唇を重ねる。

 長いキスのあと、祐平は溢れ出る寛人の涎を舐め取った。

 寛人の眦から一筋の涙。

「俺に任せろ」

 祐平は、彼の涙を拭った。

           *

 キッチン。

 祐平はシチューを煮込む寛人を背中越しに抱いた。

「美味そう」

 シチューをかき混ぜる彼の手を握り、祐平も一緒に混ぜる。

ビーフ?」

「ポーク」

 祐平は彼の肩に顎を乗せて言った。

「ポークって、大抵カレーじゃねぇ?」

「だから試しに作ってみたんだ」

 祐平は寛人の首筋を愛撫する。

「あと10分煮込みたいんだ。我慢して」

「そんなに長く、我慢できないよ」

 彼の顔を自分に向け、祐平は寛人にキスをする。

「10分でもっと美味しくなるのに…」

「今だって美味し過ぎる。この瞬間を食べたい」

 二人、激しくキスを重ねる。

「火を止めなきゃ。また焦げちゃうよ…」

「大丈夫」

 二人、見つめ合う。

「もう誰にも止められない」

 寛人は、火をそっと止めた。

           *

 深夜。

 祐平、ガッと目覚める。

   …夢か…

 真っ暗な部屋で震えるスマホが灯る。

「はい?」

「島村香純です」

「何か?」

「主人が、先ほど亡くなりました」

「死んだ?」

「夢見て眠るような最期でした」

「…」

「主人からあなたへの遺言を預かっています」

「遺言?」

「葬儀に必ず参列して欲しいと」

「そうですか」

「日程決まり次第、お知らせします」

「お願いします」

            *

 祐平は駐車場でタクシーを降り、葬儀場の建物を見上げた。

 

 

 

(第4回『告白』END)

(第5回『寛容』アップ予定:2021.7.6)

遠巻きの寛容 第3話「疑心」

 朝。

 開斗は玄関で祐平の背中を抱いた。

「こらっ」

「会社じゃ出来ないし」

「遅れるぞ」

「上司もね」

 二人、笑う。

「今夜、社長と飲むの?」

「うん。先に寝てて良いよ」

「飲み過ぎないように」

「わかってる」

 二人はキスをした。

            *

「やれやれ。ここですか」

「この店じゃ、不服か?」

「いいえ。でも、お誘いが社長ですからねぇ」

「お前と小洒落た店になんか行けるか」

「その手の店よりホッとできますよ」

「ここで酒癖の悪い部下に何度絡まれたか」

「ここ、昔のままですね…」

            *

「それで相談事って?」

 若杉、鞄から出した封筒を祐平に渡す。

「役員候補の身辺報告書?」

「同期だろ。どんな奴だ?」

「30年。音信不通なので、お役には立てないかと」

「そうか」

「幹部社員への身辺調査の噂。本当だったんですね」

「人事の節目の我社固有の慣習」

「自分も?」

「当然。まぁ、気分の好い類の物ではないがな」

 依頼者欄に祐平の目が留まる。

「島村チーフの名前があるのは?」

「あいつは、人事の時に俺の直部下で調査の窓口を担当だった」

「何故、うちの部に?」

「お前の調査後、海外メディア編集部を希望してな。違う異動を考えてたんだが、お前の下で鍛えるのも良いだろうと思ってな」

            *

 居酒屋の後、二人はショットバーで飲んだ。

「酒、弱くなりましたね」

「流石に還暦過ぎるとな」

 若杉、赤ら顔で苦笑。

「お前こそ。仕事の話しをしなくなったさ」

「相手は社長ですから」

「偉く成るもんじゃないな」

 若杉は、祐平を直視した。

「単刀直入に聞くが良いか?」

「何ですか?」

「お前と島村。一緒に暮らしてるのか?」

「半年になります。噂耳に入りましたか?」

「口を挟む積りもないし、社内恋愛も自由だ。ただ慎重にな」

            *

 帰宅し、祐平が添い寝をすると開斗は目覚めた。

「起こした?」

「ううん。玄関の音で目が覚めてた」

 開斗、彼に向き合う。

「社長。何の用だった?」

「特に何も。元部下と飲みたかったみたいだ」

「ふーん」

「人事からウチへの異動、希望したって?」

「社長?」

「うん」

「お喋りなオヤジ。だからジジイは嫌いだ」

「俺もジジイだけど」

「一番嫌いだ」

「俺が異動になるから希望したと、社長は言ってたけど」

「ちぇッ」

「本当か?」

「うん」

「お前なら、もっと他に有利な選択肢があったろう」

「折角この業界にいるのに、著名な編集者の下で働かない手は無いでしょう」

「ふーん。でも嬉しかったよ」

 祐平は、一層強く彼を抱きしめて言った。

「お前との関係を聞かれた」

「マジ?」

「噂が耳に入ったらしい」

「あちゃ。それで?」

「事実を伝えた」

「何か言ってた?」

「『慎重に』と。それだけを言われた」

「ふーん」

 開斗は不機嫌顔で言った。

「やっぱ会社って、面倒くさい」

            *

 祐平を乗せたタクシーは渋滞に嵌まり、東都大学病院の前で動かなくなった。

彼が何気なく病院の出入り口に視線を向けた時、その中に入って行く開斗らしき後ろ姿を見掛けた。

 急にタクシーが動き出し、彼は確認の間もなく開斗を見失った。

            *

「一緒の晩御飯。久しぶりだね」

「ごめんな」

「そういう意味じゃないから。昼とか朝は、一緒に食べてるし」

 祐平は彼の顔をジッと見る。

「どうしたの?」

「具合とか悪くないよな」

「うん。何で?」

「開斗に似たのが東都大学病に入るのを見てさ」

「別人だよ。俺、この通り元気だし」

「そうだよな」

            *

「おや。今日は、シュンスケのみ?」

「そう。一人営業。開斗と待ち合わせ?」

「あいつ。今日、明日と大阪出張」

「寂しくなった?」

「何とかの洗濯さ」

「ボトルで良い?」

「うん」

「何割り?」

「ウーロン。良かったらどうぞ」

「いただきます」

            *

 乾杯の直後、祐平のスマホに開斗からのSNS。

『今、どこ?』

シーモア。そっちは?』

『二次会のお店へ移動途中』

『ゲイバー?』

『ノン気の店ですよ』

『ふーん』

『混んでる?』

『客。俺一人』

『飲み過ぎないでね。オッサン』

『そっちこそ。若造』

            *

「開斗?」

 祐平、頷く。

「仲の好いこと」

 祐平、照れ笑い。

「一緒に暮らして半年くらい?」

「うん」

「年上嫌いのあの子が祐平さんと。分らないものね」

「何で年上を毛嫌いしてたんだ?」

「どうしてだろう」

「年の離れた兄がいて不仲とか」

「あの子、一人っ子よ。開斗が生まれて割と早くに両親が離婚したから兄弟はいないって言ってたわ」

「ふーん。初耳だよ」

 シュンスケは、不機嫌な表情の祐平を少し笑いながら言った。

「あの子、自分のことを他人にあまり話さないから」

「…」

「両親の離婚原因について一度だけ話してたわ。詳しくは言わなかったけど、父親と父より少し年上のゲイとの関係が原因で両親が別れたって。その相手を恨んでる感じだった。あの子の年上嫌いって、それからかしら」

            *

 再び、開斗からSNS。

『好い雰囲気の店だよ』

(店の写真)

『今度、二人で来ようよ』

『行こう』

(燥ぐ熊キャラ、点滅)

            *

「両親の人生を滅茶苦茶にしたゲイの奴が許せないって」

「…」

「見つけたら絶対に復讐してやるって」

 眉間に皺を寄せながら、シュンスケは続けた。

「あの時、開斗を怖いなって、マジで思った」

            *

 在宅勤務の祐平に開斗からSNS。

『お願いがあるんだけど』

『何?』

『送って欲しい企画書があって』

『企画書?』

『午後の打ち合わせで使うやつ。社内ネットに共有し忘れてた』

『どこにある?』

『俺の部屋のPC。デスクトップ』

『パスワードは?』

『今送る』

 立ち上げた開斗のPCのデスクトップはフォルダーのカオスと化している自分PCのそれに比べ静寂すら感じさせるシンプルな画面だったので、祐平は思わず苦笑した。

『あった。一応、中を確認するけど良いか?』

『編集長。是非お願いします』

 祐平は内容を確認し、修正指示も含めて企画書を社内ネットに共有した。

『まったく上司をこき使いやがって』

『可愛い部下の頼みを聴いて頂き、ありがとうございます』

『今日は、早く帰って来いよ。一緒に飯を食べよう』

コアタイム終了次第、直ちに帰宅致します』

『待ってる』

(点滅するハートマーク)

            *

 PCをシャットダウンしようとした祐平だったが『YS』のタイトルを記されたフォルダーが妙に気になった。

フォルダーをクリックするがパスワードを要求される。ダメ元で祐平は、今しがた開斗に教えられたパスワードを試しに入れてみると、セキュリティガードは解除された。

 フォルダーにはテキストと画像データが入っていた。

先ずテキストを見た祐平だったが、その内容を見るなり彼は眉間に皺を寄せた。

 …一体これは、どういうことだ…

 それは、開斗が興信所に依頼した祐平に関する調査報告書で、その主たる内容は30年前の祐平と寛人に関わるものだった。

 …俺と寛人の関係になんで、あいつが関心を持つんた…、

その時、シュンスケの言葉が祐平の脳裏を過る。

 …両親の人生を滅茶苦茶にしたゲイの奴が許せないって…

 祐平、震える指先で画像データをクリック。

 彼、写真に絶句。

 裸の二人が抱合ってベッドで眠る写真。

 復讐の二文字を、彼は感じた。

            *

 開斗が帰宅すると、祐平はリビングルームのソファーに腰掛けていた。

「あっ、居たんだ」

 祐平はゆっくり顔を上げた。

「ただいまって、玄関で言ったけど返事がなかったから出掛けてるのかと思った」

 祐平、無言。

「どうしたの?」

 彼は開斗の顔をジッと見つめる。

「具合悪いの?」

 不快な溜息の後、祐平は言った。

「そこに座れよ」

 祐平は対面の席を指した。

「えっ。隣り、行くよ」

「良いから。そこに座れ」

 普段と様子の違う祐平に戸惑いながら、開斗は彼が指定する椅子に腰掛けた。

「開斗。お前、俺に隠し事してないか?」

「別に隠し事なんてしてないけど」

「お前のPCのデスクトップの『YS』名のフォルダー。YSって何の略だ?」

「特に何か意味があるとかではないけど」

「言えない様だな」

「そんな事は無いけどさ」

「じゃあ、言えよ」

「…」

「俺の名前、『YUHEI SAKURAI』のイニシャルだろ」

 開斗は言葉を失い、祐平を凝視する。

「パスワードが解からなければ、見なくて良い物を見ずに済んだ。でも、お前が送ってきたパスワードが合ってしまった。勝手に覗いたことは謝るが、あれは一体、何の積りだ?」

「祐平。何言ってんの?」

 祐平は、準備していた書類を開斗に突き付けた。

「印刷したよ。俺に関する興信所調査報告だろ」

「それは、人事に居た時の…」

「仕事だろ。知ってる。だが、これは違うよな。俺の30年前を何故調べた?」

「それは…」

「俺が、お前の両親の離婚の原因だと思ったか?」

 祐平は印刷した写真を、開斗に投げつける。

 表情を強張らせ、開斗は床の上の写真を見つめる。

「それをネタに俺を、セクハラで陥れる積りだったか?」

「違うッ」

「東都大学病院へ、何しに行ったんだ?」

「そんな所、行ってない」

「俺がお前を見たと言った日はどこに居た?」

「あの日は、打合わせで外に…」

「その予定。ドタキャンされたよな」

「…」

「俺に何の恨みがあるんだ」

「恨んで無い。祐平を本当に愛してる。信じて」

「開斗。お前…」

  開斗、目から涙。

「一体、何者なんだ?」

           *

 開斗は頭を抱えて泣くだけで何も答えなかった。

「お前には黙っていたけど、その後も病院へ行くお前を見てるんだ」

 彼は顔を上げる。

「駅前の花屋で花束を買っているのを偶然見掛け、お前の後をつけた。案の定お前は、東都大学病院に行った。その時は病院のロビーで見失ったがな。誰を見舞ったんだ?」

 開斗、怯えた表情。

「俺に言えないか。そいつ、ひょっとして本当の彼氏か?」

「違う。俺が愛してるのは祐平だけだ」

 祐平、苦笑い。

「それなら何故、聞かれたことに答えられない」

「…」

「簡単に答えられることじゃないか」

「本当に何でも無いんだ。俺を信じてよ」

「隠し事をするお前を、信じろと?」

 開斗は何度も左右に首を振って否定し続ける。

「もう一度聞く。東都大学病院に誰が入院しているんだ?」

「それは…」

「よほど知られたくない人らしいな」

「それを知ってどうするの?」

「開き直るか。呆れた奴だ。なぁ、お前がそうまでしたい奴って一体、何者だよ?」

「…」

「俺とは、どんな関係なんだ?」

 開斗、哀願の眼差し。

「そんな目で俺を見るなよ。お前にとってのそいつは、俺以上に大切な人のようだ」

「確かに大切だけど、俺にとって一番大切なのは祐平だよ」

「嬉しいけど、そいつも大切だと認めるんだな」

「それは…」

「それじゃあ。そろそろ行こうか」

「えっ、どこへ?」

「東都大学病院だろ。お前の大切な男の見舞いさ」

「嫌だっ…」

「お前の大切な奴なら、俺にもそうだ。挨拶しないとな」

「嫌だ。お願い。それだけは勘弁して」

 開斗、祐平に縋りついて号泣懇願する。

「会ったら。俺の事、ちゃんと紹介してくれよ」

            *

 病室のネームプレートを見て、祐平は声を漏らした。

「清水。寛人…」

            *

 ドアを開けようとする祐平に、開斗は立ちはだかる。

「どけよ」

 中に入らせまいとする開斗と祐平の間で静かな諍いがしばらく続いていたが、業を煮やした祐平は力任せに彼を押し除けた。

  そして、祐平はドアを開けた。

殺風景な個室の奥に生命維持装置に囲まれたベッドが、彼の目に入る。

  …何だ、ここは…

 ベッドサイドで患者の寝顔を見て、祐平は声を漏らした。

「寛人…」

 祐平は振り向き、彼に訊ねる。

「何なんだよ。これは?」

「20年以上。父さんは、この状態なんだ」

「父さん、だと?」

「…」

「寛人の息子だって?」

 開斗、頷く。

「俺を欺いてたんだな」

「違う」

「じゃあ、何故黙ってた」

「それは…」

「復讐目的で近づいたんだろ」

「違う。祐平。愛してる。本当に愛してるんだ…」

「俺から、離れろよ」

「嫌だッ」

「離れろって」

 突然、ドアが開いた。

「母さん…」

「あなた。桜井祐平…」

「あの時の女かよ」

 二人の顔を見て、祐平は力なく笑った。

 個室の静寂に染入る生命維持装置の微かな作動音。

 そして、祐平は言った。

「俺たち、別れよう」

「ゆうへい…」

「もう終わりにしよう」

 彼は、部屋を出て行った。

 

 

(第3回『疑心』END)

 

(第4回『告白』アップ予定:2021.7.3)

遠巻きの寛容 第2話「虚実」

「桜井」

 祐平は開斗を押し離した。

「セクハラだぞ」

「俺、本気ですよ」

「わかった。だが、今夜は帰って寝ろ」

「祐平」

「編集長だ」

            *

 午前5時前。

 ホテルの自室で目覚めた祐平はベッドを出て窓の外を眺めた。

  彼の目に蒼白い都会が酷く生彩を欠いて映った。

 …祐平。好きです…

 脳裏を過る、開斗の声。

 …あの時にどこか似ている…

 彼は、そう感じて少し途方に暮れる。

            *

 編集会議の後、開斗は会議室を出ようとする祐平を呼び止めた。

「何だ?」

「資料は何時までに用意すれば?」

「明日迄で良い。入手次第、デスクに置いといてくれ」

「分りました。この後、外出されますか?」

「そうだ」

「お戻りは?」

「多分、戻らない」

 開斗は、背を見せる祐平に言った。

「既読スルー。多過ぎませんか?」

 向き直り、祐平。

「仕事の指示や判断は返してると思うが」

 開斗は、再び背を向けた祐平に言った。

「俺、諦めませんから」

 何も言わず、祐平は会議室を後にした。

            *

 帰社した時、全員退社していた。

 彼のデスクには、表紙に付箋紙の貼られた数冊の資料が置いてあった。

付箋紙を取り上げてメモ書きの字を見た時、祐平は何故か寛人のことを思い出していた。

            *

「いらっしゃい」

 シーモアに一人で来店した客を、意外という面持ちでシュンスケは迎えた。

「シュンスケ。久し振り」

 カウンター席の祐平にシュンスケは言った。

「覚えてたんだ…」

「まぁね」

「忘れられたと思った」

「俺の方こそ。忘れられてると思ったよ」

 思わず、二人は笑った。

 乾杯の後、それぞれの話となった。

「レオン。居抜きしたの?」

「20年前に渉ママから譲られたの」

「部下に連れて来られて驚いたよ。レオンがあった場所だし。店の名前が違うから、知り合いは居ないだろうって入ったら君が居て」

「こっちこそ。開斗がここに誰かを連れて来るなんて初めてだし。しかも会社の上司だって言うじゃない。しかも一緒に来た人が祐平さん。驚きの連続よ。外国に行ったのよね」

「ロンドン」

「いつ戻ったの?」

「今年の春」

「そうなんだ」

「ところで、渉さん元気?」

「3年前に心不全で亡くなったの」

「えっ?」

「故郷の札幌でお店開いて、元気にしてたんだけどね」

「そう…」

「祐平さんに会ったら伝えてくれって。渉ママからの言伝」

「何?」

「祐平さんが元彼と別れる原因を作って、悪かったって」

 雰囲気が澱む。

「もう、気にしてないさ」

            *

 原稿取りを終えて社に戻る途中、祐平は時刻観書店に立ち寄った。

 古書店街に面したショーウィンドウに収まる大時計は、この店のシンボルとして親しまれている。

寛人と別れて以来避けていた場所だったが、その日は自然と足が向いた。大時計を見ていると、その時計の由来を説明した寛人の声が祐平の脳裏に甦った。

 

 …この大時計。創業時からここにあるんだ…

 …100年前からか…

 …そう。文字は暦を記録するために作られたって。創業者の自説…

 …それで本屋に時計かよ…

 …うん。でも、当時は逢引きの時計って呼ばれてたらしいよ…

 …逢引きねぇ…

    …大時計が珍しかったし本屋なら怪しまれないからね…

 

            *

「えっ。開斗にいきなりキスされたの?」

 シュンスケ、にやつく。

「相変わらずモテること」

「アホか」

「でも開斗にしては意外ね。だってあの子、年上嫌いなはずだから」

「?」

「祐平さんと同年代は特に嫌ってたし」

「そうなの?」

「でもその年代に人気なのよ。だから、あの子目当てのお客さん増えたもの」

「ふーん」

「何かあるかしらね」

 シュンスケは含み笑いをしながら祐平を見た。

            *

 祐平は二階の書籍売り場を見て回った。

数年前に完成した建物の建て替えに合わせて店内も改装され、彼の記憶にある雰囲気とは一新されていた。

 天井まで届く書棚が林立し、書籍の充実ぶりは昔と変わらなかった。

 左奥のコーナーに至った時、祐平は開斗の背中を目にして思わず心の中で呟く。

 …寛人…

 開斗の後ろ姿は寛人のそれに瓜二つだった。

   …探してる本。見つけたよ…

 寛人の自慢気な笑顔。

 我に返った祐平は彼に気づかれぬうちに踵を返すが、呼び止められる。

「編集長ッ…」

            *

「島村チーフ…」

 開斗は少しムッとした表情で祐平の前に立った。

「探してる本。見つけましたよッ」

 そして、堰を切ったように話し始めた。

「ネットで探しても無くて、ここに有るって分ったから探しに来ました。編集長がお急ぎのようだったし、部下に任せると間に合いそうになく、本探しは得意なので自分が探しに来ました。正直、その中の一冊を探すのに骨が折れました。でもそんなことは良いんです。許せないのは、ここで本を探しているのを見て知っていながら素通りされる態度なんです。この前は、自分の気持ちを一方的に押し付けてしまって申し訳なかったし、それで僕が嫌われたとしても文句は言えません。でも日頃から公私のケジメに厳しい編集長が、自分を無視するってどういうことですか」

 押し付けるように本を祐平に渡した。

「次からは、ご自分でお探しください」

 祐平の脳裏に寛人との記憶が鮮明に蘇る。

 

 …まったく信じられないよ。毎回、探しにくい本ばっか…

 …俺じゃなくて、俺の上司に言ってくれよ…

 …俺みたいな本探しの達人がいなかったら、どうなっていた事やら…

 …メシ。ご馳走するからさ…

    …どうせ居酒屋でしょ…

 …少々高めの店でも良いぜ…

 …ほら。探している本、見つけたよ…

 

「開斗ッ」

 怒って立ち去る彼に言った。

「ありがとう」

 開斗は振り向き、呟く。

「今、名前で呼ばれた…」

「そうだったか?」

「開斗って、呼びましたよ」

「まぁ、そうかな」

「嫌われてないんだ」

「はぁ?」

「今回は、嬉しいから許します」

 祐平は開斗を優秀で有能な若手社員だと誰よりも認めているが、時として見せるこの手のリアクションは彼の理解を超える。

だからこの時も、祐平は思わず苦笑した。

「笑いましたね」

「済まん」

「本当にそう思ってます?」

「もちろん」

「じゃあ、飲みに連れてって下さい。もちろん編集長のおごりで」

「良いけど条件が一つある」

「何です?」

「セクハラ禁止」

「してません」

「それは被害者次第だ」

 開斗、憮然。

「留意しますよ」

            *

「熱燗。二本…」

「編集長。飲み過ぎですよ」

「祐平で良い」

「でも…」

「俺も開斗って呼ぶ」

 熱燗が届く。

「まぁ飲め」

「単なる親父っすね」

 開斗は、祐平の時計に触る。

「これ好いっすね」

「まぁな」

「俺も買おうかなぁ」

「バーか。売ってねぇーよ」

「ムカつく」

「限定品。レア物。入手困難」

「ネットで探す」

「欲しいのか?」

「はい」

「2人目だな」

「?」

「これ、欲しがる奴」

「一人目は?」

「初めて一緒に暮らした奴。欲しがってたから探したよ」

「見つけた?」

「ああ。贈ったら、俺がしてるのを欲しいと。だから交換した」

「ロマンチック」

「なにが。その直後に別れたよ」

「えッ、何で?」

「女に走った」

「バイなの?」

「知らん。でも別れた原因はずっとそれだと思ってたよ」

「違うんですか?」

「うん」

「?」

「原因は、俺だよ」

「ええッ。でも浮気したのは相手でしょう」

「当時の俺は心を閉ざしてた。その自覚すら無くて、あいつを傷つけた」

「後悔してます?」

「後の祭りだよ。欲しいか?」

 瞬時の沈黙。

「俺じゃない。時計」

「でもまぁ、見つからないでしょう」

「探す。絶対に見つける」

「本当っすか?」

「クリスマスにプレゼントしてやるよ」

「編集長。酔ってますよ」

「祐平だッ」

            *

「祐平。あんたんの家に着いたぞ」

 祐平は、玄関に入るなり開斗にキスをした。

「祐平…」

「仕返しだ」

            *

 朝方。

 祐平は、開斗に覆いかぶさって眠っている。

 部屋の薄明りに浮かぶ彼の横顔を、開斗は見つめる。

 やがて二人の上にスマホをかざして数枚の寝姿を撮った。

 そして開斗はベッドを抜け出し、服と荷物を持って寝室を出た。

            *

 黙って祐平の家を出ようとした開斗だったが、書斎が気になり中に入った。

  …ずげぇ蔵書…

 天井まで続く書棚を呆れ気味に眺めていたが、違和感を覚える一冊を手にする。

  …あの人が、星の王子様をねぇ…

 半ば馬鹿にしながら本を開いた開斗だったが、手垢に塗れたページを見て言葉を失う。

 開斗は書斎を出ると玄関へ行かず、祐平の眠る寝室に戻った。

            *

 二人は、付き合い始めて最初のクリスマスを祐平の家で過ごした。

「メリークリスマス」

 祐平は、開斗にプレゼントを渡した。

「開けて良い?」

 祐平、頷く。

「あッ。見つけたんだ」

「結構探したけどな」

「ありがとう」

「今しないの?」

「交換したい?」

「うん…」

 自分の時計を外し彼に渡した。

「開斗。愛してるよ」

「うん。俺も…」

「ここで、一緒に暮らそう」

            *

「祐平。年末年始は?」

「ここで過ごす。開斗は実家?」

「ここに居て良い?」

「俺なら気にしなくて好いよ」

「一緒に居る」

「わかった。ありがとう」

            *

 年の瀬。

 開斗は東都大学病院に一人で来ていた。

 顔馴染みの看護師たちに挨拶をしながら廊下を進み、奥の個室に入った。

 ベッドで眠る全身不随の患者の傍らに座ると、彼に声を掛けた。

「父さん、来たよ」

 

(第2回『虚実』END) 

(第3回『疑心』アップ予定:2021.6.30)

遠巻きの寛容 第1話「理由」

 1990年3月7日、水曜日。曇天。

神保町、時刻観書店。

 仕事で必要な本を探しあぐねた桜井祐平は、近くの若い男性店員に声を掛けた。

「はい。何か?」

「この本、あります?」

 祐平、メモ書きを彼に渡した。

「少々お待ち下さい」

 彼はすぐ戻ってきた。

「こちらですか?」

「そう」

「良かったです」

「でも、どこに?」

「本探しの達人ですから」

「探すのを手伝ってもらおうかな」

「喜んで」

 名札に清水寛人とあった。

「シミズヒロトさん?」

 苦笑し、彼は答える。

「カントです」

  これが二人の出会いだった。

            *

 居酒屋で飲んでいるとき、祐平は寛人に告げた。

「俺、実はゲイなんだ」

「やっと、告ってくれたんだ」

「えっ?」

「俺も、そうだよ…」

「…」

「祐平。好きです」

            *

 二人が一緒に暮らして、一か月が過ぎた。

「祐平。誕生日おめでとう」

「ありがとう」

乾杯の後、プレゼントの箱を開く祐平を、寛人は不安気に見守る。

「星の王子様の限定本?」

 寛人、頷く。

「ありがとう。大切にする」

            *

「星の王子様。砂漠に不時着した『僕』を本当に助けられたと思う?」

「救われたさ」

「どうして?」

「王子様の姿が消えたから」

「寂しい」

 祐平は彼を抱締めた。

「3月5日。誕生日だろ?」

「うん。でも一年近く先」

「何が好い?」

「プレゼント?」

「うん」

 彼の腕時計に触った。

「これが好い」

「これか?」

「うん」

「限定品だからなぁ」

「もう無い?」

「見つけるさ。必ず見つける」

            *

 平日の『レオン』は学生のゲイたちで賑わっていた。

「浮かない顔」

 寛人、力なく笑う。

「ケンカ?」

「ううん。祐平、優しいよ」

 渉、グラスを拭いている。

「忙しいみたい。帰りも遅いしさ」

 カラオケが止んだ。

 寛人は、カウンター席の女性客と目が合った。

 彼女は彼に会釈する。

「香純さんよ」

 寛人も無表情に会釈した。

            *

「誕生日おめでとう」

「ありがとう。プレゼント?」

「開けて見て」

「腕時計。見つけたんだ」

 祐平は頷くと言った。

「どっちが好い?」

「?」

「俺のか、それ」

「祐平の…」

 祐平は時計を外し、それを寛人の腕につけた。

「もう一つあるよ」

 サリンジャーの短編集を寛人に渡した。

「…」

「もう読んだ?」

「ううん」

「バナナフィッシュが面白いよ」

「大事にする」

            *

 …寛人。女と…

  祐平は、信号待ちのタクシーからホテルに入る二人を見つめた。

            *

 部屋の灯りをつけると、祐平がソファーに腰掛けていた。

「どうした?」

「どこに行ってた?」

「仕事…」

「楽しかったか?」

「?」

「女とのセックス」

「なに言っての?」

「昼間。偶然見たんだよ」

「見たって?」

「お前と女がホテルに入るのをな」

 祐平は寛人の胸ぐらを掴むと声を荒げて言った。

「気持ち良かったか?」

「…」

「言い訳ぐらいしろッ。で、どうだったんだ?」

 祐平、彼を激しく揺さぶる。

「どうだったんだよ。何か言えよ。おいッ」

 寛人、無言のまま涙をボロボロ流す。

「弁解ぐらいしろよ。嘘でも否定しろよ」

 祐平は、その場に立ち尽くして泣く彼にすがるように言った。

「頼むから寛人、何か言ってくれよ」

            *

 遠巻きに座る二人の沈黙を破るように寛人は、静かに告げた。

「俺たち、別れよう」

「ゆうへい…」

「もう終わりにしよう」

            *

「桜井副編集長の栄転を祝して、乾杯」

 居酒屋に歓声が響く。

「ロンドンでの新プロジェクト。頑張れよ」

 上司の若杉は祐平に酒を注ぐ。

「ありがとうございます」

「お前も遂に編集長か」

「そのようです」

 二人は苦笑する。

「こんな時に何なんだが」

「はい」

「この間、寛人君にバッタリ出くわしたよ」

 酒を飲もうとする祐平の手が止まる。

「お前のロンドン赴任を伝えた」

 祐平の表情が曇った。

「結婚するそうだ」

「…」

「そう伝えてくれと。彼に頼まれた」

「そうですか」

「余計だったな」

「いいえ」

 祐平は若杉に酒を注ぐ。

「ロンドンに行ったらゲイだとオープンにしようと思っています」

「おい。大丈夫か?」

「真っ新でスタートを切りたいので」

「無理に抱え込むなよ」

「はい」

            *

 また、祐平はその夢を見た。

広場でパントマイムを演じる大道芸の男を、観客たちが遠巻きに囲んで見ていた。

芸人の演技に観客全員が魅了されているが、誰一人として彼の足元にある帽子に金を入れようとしなかった。それは、両者の間に目に見えない空気のような存在があって、互いが触合うことを邪魔しているかのようだった。

 観客たちは、寛容にも似た眼差しでパントマイムの男を見続けるのだが、どうしても投げ銭への一歩を踏み出すことができなかった。

            *

 2020年3月。

 ウェーブ本社の海外メディア編集部は、新任の編集長の着任にざわついていた。

「桜井さんってロンドン展開を立上げ、仕切っていた人だろ」

「若杉社長がここの編集長時代の副編だって」

「元部下かぁ」

「オープンゲイ」

「パートナーは?」

「居ないらしい」

「開斗と似合いじゃねぇ」

 同期によるいつもの軽口が始まる。

「直属上司のチーフアシスタント。開斗にも春か」

「お前さぁ、それセクハラだぞ」

「冗談だって」

「冗談が訴訟になる御時世だ。懲戒で退職金パーにするなよ」

 オフィスに新任編集長が現れた。

            *

「チーフアシスタントの島村開斗です。宜しくお願い致します」

「こちらこそ」

祐平は開斗を見つめて言った。

「以前に会ったかな?」

「少なくとも会社や仕事では無いかと」

「少なくとも?」

「大学時代にゲイバーでバイトをしていたのですが知らずに見られていたらしく、よくそう聞かれます」

「それなら会って無い。30年、日本のゲイバーに行ってない」

            *

 仕事の後、祐平と開斗は居酒屋で飲んだ。

「この後、二丁目に行きませんか?」

 祐平は苦笑する。

「日本も随分オープンになったな」

「?」

「二丁目を部下から誘われようとは思わなかった」

「ゲイ同士、普通でしょう」

            *

 二人は、開斗のバイト先だった『シーモア』で軽く飲んで店を出た。

「楽しかったよ…」

 店の入った雑居ビルの前で開斗は祐平に抱きつくとキスをした。

「おい。酔ってるのか?」

「祐平。好きです」

 

(続く)

(次回アップ予定:2021.6.26)

黒と白

 寝室の姿見鏡に映る自分を見ながら哲司は顔をしかめた。

「喪服に白いマスクはなぁ…」

 独立前に勤めていた会社で入社以来世話になった上司にして、自分の会社の主要取引先の社長が急逝し、その日の午後に社葬が執り行われる。

「社葬だろ。マスクは黒の方が…」

「パパ。何してるの」

 妻の早苗が苛立ち気味に寝室を覗きながら言った。

「社葬に白いマスク。まずくないか?」

 早苗はあきれ気味に言った。

「もう。直ぐ出ないと式に間に合いませんよッ」

            *

 コロナとはいえ社葬に参列する関係者は多く、記帳を済ませて受付に向かう行列が長く伸びていた。ソーシャルディスタンスで間隔を空けて並んでいたせいか、参列者の顔が否応なく目に入る。誰も彼も黒いマスクをしているように思えて哲司は落ち着なかった。

 

 …やっぱり社葬には黒いマスクだよなぁ…

 

 哲司は俯き気味で受付へと進んだ。

 間もなく受付の順番となろうかという頃、受付ブースを見た哲司は唖然とさせられた。応対者全員が黒いマスクをしていた。

 

 …おお。これはマズいぞ…

                                   

 哲司は慌てて俯こうとするのだが、ブース内の一人と運悪く目が合ってしまう。

自分くらいの年齢で厳つい風貌の受付の男は、哲司をジッと睨み続けた。

            *

 『取引先関係』の受付でドーンと立っているその厳つい男は、落ち着かない様子の哲司をジッと睨みながら相対した。

 

 …いやいや。まずい雰囲気だ。受付を早く済ませてこの場から離れなければ…

 

 哲司は、記帳表と香典をその男に渡して受付を済ませ、その場からさっさと立ち去ろうとしたが、その男に呼び止められた。

「西村?」

 哲司は、恐る恐る振り向く。

鬼のように厳つい風貌の男。

 でも、哲司へ向けられた眼差しはそれまでとは打って変わって穏やかで親し気だった。

「俺だよ、俺」

「?」

「今泉だよ」

「えっ?」

 その男はマスクを外し、笑顔の素顔を晒して見せた。

「お、お前。今泉かよ」

「そう。三十年振りか?」

「もうそんなになるか…」

            *

 社葬の後、二人は昔連れ立ってよく通った居酒屋に行った。

 哲司が独立する直前に今泉は海外赴任となり、以来日本を離れていた。

「いつ戻ったんだ?」

「先々月にな」

「連絡くらい寄越せよ」

「スマン。余裕なくてな。それに戻る早々、社葬だろ」

 今泉、苦笑。

「でも、本当に残念だよ…」

 今泉は落胆して言う。

 そして二人は、故人を偲んだ。

            *

 酒が回って赤ら顔の今泉が言った。

「そう言えばお前、受付で緊張してたよな」

 そんな彼の顔に赤鬼のそれを重ねながら、哲司は言い訳した。

「お前に睨まれたからなぁ」

 白いマスクで気後れとは言えず西村はそう返した。

「別に睨んでたわけじゃないぞ」

「マスクでお前だと判らなかったしな。目つきの鋭い人に睨まれて、ちょっと引いた」

「普通に見てただけだぞ」

「お前だって判ってりゃ、平気だったさ」

「会うのが久しぶりだろ。マスクで顔も隠れてるし、顔を見ながら、お前かどうか確認してたんだよ」

「確認?」

「老けたよ。お前」

 流石にムッとして、哲司も言い返す。

「お前こそ」

 酒が進み、お互いの近況話となる。

 今泉には娘が二人いるが、どちらも結婚して家を離れていた。だから現在は、夫婦二人の生活らしい。

「娘たちが居る時はそんなに感じなかったんだが、居なくなってみると家の中がガランとしちまってな」

「寂しいのかよ?」

「ちょっと違うなぁ。つまり、夫婦二人の生活って久しぶりだろ。でもその頃は、家も広くなくてさ。現在は一軒家に住んでるんだが、妙に広くてな。慣れてないんだろうな」

「わかるよ。うちも一人娘が嫁いで、夫婦二人きりになって、その生活に慣れるまで時間がかかったよ」

「お前もか。俺だけじゃないんだな」

哲司は、もう直ぐ娘夫婦の間に子供が生まれることを伝えた。

「そうか。初孫か?」

「あぁ。初孫だ」

「いつ生まれるんだ?」

「来月の初めだって聞いてる」

「そうかぁ。西村も、おじいちゃんになるんだな」

「どうも、そうらしい」

「俺たち。もうそんな年齢になったんだな」

            *

 西村は、次の一軒を誘った。

「行きたいが、明日病院なんだ」

「なんだ。具合が悪いのか?」

「いいや。実は、孫の顔を見に行くんだよ」

 今泉は孫の待受け画像を見せた。

「女の子でさ。可愛いんだ」

 今泉は、生まれたばかりの孫娘の待受け画像を見せた。

 

 …猿みたいな顔だな…

 

 デレデレ、にやにや顔の今泉には申し訳なかったが、哲司はそう思って内心苦笑した。

 そこへ妻の早苗から電話が入った。

「えっ。陣痛が始まったって?」

「そうなの。早まったみたい。今どこです?」

「まだ、今泉と一緒だけど」

「早く戻って来れない?」

「ああ。わかった。直ぐに戻るよ」

 電話のあと、哲司は今泉を見た。

「二件目を誘っといて、悪いな」

「いいさ。気にするな。俺も明日は都合があるし。神様のお導きさ」

「今度また、ゆっくり飲もう」

「そうしよう。初孫か。可愛いぞ」

            *

「病院だからなぁ。マスクは白だろう…」

 翌朝、姿見鏡に映る黒マスク姿の自分を見ながら哲司は呟いた。

「パパ。支度まだですか?」

「母さん。白いマスク無いの?」

「ありませんよ。今、うちには黒いマスクしか残ってないんです」

「昨日。白いやつ見かけたよ」

「あれが最後の一枚。買いに行ったら黒しかなかったんですよ」

「病院だから。やっぱり白いマスクでないと…」

「黒でも白でも、コロナを防ぐのなら良いマスクですよ」                   

「でも、病院だしさ」

「そんなに気になるなら病院で買えば良いじゃない」

「これ開けちゃったし。使わないともったいないしさ」

「ぐずぐず言ってないで、早くして下さいね」

            *

 哲司は、孫との面会手続きをする妻をロビーで待った。

予想より来院者は少なかったが、白いマスクをしている人がやたらと目について見える。病院の購買で白いマスクを買うべきか思案していると妻が戻って来た。

「母さん。やっぱり白いマスクの方が…」

「まだ言ってるの」

            *

 若い女性の看護師に案内された二人は、室内を一望できるガラス窓の連なる新生児室前の廊下で待つように言われた。

既にそこには、西村夫妻と同年配らしい先客がいた。

落ち着いた素振りの夫人とは対照的に最近アニメで流行の派手な格子柄のマスクをしている亭主の方は、廊下に面した窓ガラス越しに孫を見てやたらと燥いでいる。

 

 …なんだ。あんなマスクを病院にしてきて… 

 

 哲司は、その男を見ながらイラっとしながら思った。

「パパぁ…」

 突然、哲司の隣にいた看護師が燥いでいる夫婦を嗜めるように言った。

「おう。奈々か」

「奈々かじゃないわよ。病院だから騒がないって、いつも言ってるじゃない」

「おお。スマン、スマン。でも可愛くてなぁ…」

 愛想笑いを浮かべながらで二人のやり取りを眺めていた哲司だったが、ふとした拍子に男と視線が合ってしまう。

 そして二人は、ほぼ同時に『あっ』と声を上げた。

「今泉、か?」

「西村。お前、なんでここに?」

「お前こそ」

「俺は、孫があそこに居るから…」

「えっ」

「紹介するな。お前の隣にいる看護師。俺の下の娘の奈々だ」

 看護師は二人に挨拶をする。

「あぁ。そうでしたか。どうも…」

 今泉は、上機嫌に言った。

「いやぁーッ、昨日から奇遇の連続だな」

「まったくだ」

 哲司はそう言いながら、今泉のマスクへ視線を向け続けた。

「どうした。俺の顔に何かついているか?」

「お前のマスク。派手だな」

「あぁ、これか。奈々の子からのプレゼントでさ」

「流行のアニメのか?」

「好いだろう。これをしていればさ、鬼でもコロナでも退治してくれるぜ」

 

 …それより前に、お前が退治されちゃってるだろう…

 

 内心苦笑する哲司を妻の早苗が呼んだ。

「パパ。見て、見てッ」

ガラス窓越しに初孫を見て哲司は、今泉に聞いた。

「あのさ。そのマスク、どこで買った?」

傘男

 あれは、澄み切った夜空にぽっかりと浮かぶ十三夜の十時過ぎ頃のことだった。

 駅ビルの建て替え工事のために設置された鋼鉄製の白い工事フェンスの前で、透明のビニール傘をさし、往来の人々に背を向けて佇む三人の男たちがいた。

 静かに凛と輝く月。

 曹昂に照らされて夜の景色に輝く白いフェンス。

 傘の鈍くも透明なビニール越しに歪んで映る男の後ろ姿。

 とてもシュールな光景にハッとし、思わず足を止めて彼らの姿に見入ってしまった。

 だが、不思議にも彼らへ関心を寄せる人間は皆無だった。

 駅前ロータリーでバスを待つ人々も、彼らの脇を通って家路を急ぐ人々も、誰一人として彼らへ一瞥を向けるもなかった。

 両者は互いに背を向け合って存在しているように見えた。

            *

 数日後、残業で帰宅が遅くなった。

 雨が降っているわけでもないのに透明なビニール傘をさし、背を向けて佇む男たちは十人に増えていた。

 初めて見た時と違って彼らは群れることなく、連なるフェンスに沿って点在しながら佇んでいた。

 その様子は不気味だったから他の道を通りたかったのだが、妻と二人の子供たちの待つ家に帰るにはそこを通らざるを得ない。だから、無関心を装いつつ足早にそこを通り過ぎるのだった。

 日を追うごとに、彼らは増えていった。

 十日後、彼らの数は百人を超える。

 流石にこの頃になると、人々が彼らのことを噂し始めた。

 二週間を過ぎたあたりから彼らの奇異な行動がネットで取り上げられ、いつしか『傘男』と呼ばれるようになった。

 SNSを介して傘男の様子がネットで伝搬し、その拡散と比例して傘男たちの数も急速に増えていった。

 彼等は何かを主張をするわけでもなく、誰かに危害を加えるわけでもなく、お天気とは関わりなく透明なビニール傘さし、まるで世間に背を向けるかのように白い工事フェンスの前で黙って佇み続けた。

            *

 市民たちが傘男たちに抱く不気味と不安は、彼らの増殖に比例して膨らんでいった。

関りを持ちたくない点では市当局も市民と変わりなく、様子を見ると称した日和見を決め込むんで彼らの行動を放置する。

 市民たちは怒り、抗議と非難が市当局へ殺到した。

 ある満月の夜。

 市当局の要請により重い腰を上げた警察が、傘男排除に向かった。

 警官と傘男の乱闘を期待した市民たちの野次馬が、駅前のロータリー広場に集まる。

 やがて大勢の武装警官たちが現れた。

 そして警察署長が、傘男たちに対して拡声器越しに退去を命じた。

 野次馬たちは乱闘を期待し、固唾を飲んで成り行きを見守る。

 武装警官たち。

 傘男たち。

 両者の間でピンと張り詰める緊張の空気感。

 それを遠巻きに見守る野次馬たち。

 だが事態は、あっけなく終わった。

 警察署長が警告を言い終えると、傘男たちは従順に従ってその場を立ち去って行った。

 白けた雰囲気が野次馬たちを襲う。

 無責任な興奮と期待に酔っていた彼らも毒気を抜かれ、その場を後にした。

 傘男は、その日を境に現れなくなり町の夜に静寂と平穏が戻った。

 彼らが姿を消すと、ネットでの賑わいや喧騒も鎮まって傘男の存在は過去のコンテンツと化した。

 やがて、人々を熱狂させ、一世を風靡した傘男たちの記憶も風化していった。

            *

 駅ビルが完成し、工事フェンスが完全に撤去されると、傘男は完全忘れ去られた。

 新装した駅ビルに近在の市民たちが連日殺到し、大層な賑わいを見せた。

            *

 新装スタートの日から初めて迎えた新月の夜に事件が起きた。

 再び、傘男たちが姿を現した。

 フェンスは既に無い。

だが彼らは、町のあちこちで透明なビニール傘をさして佇んだ。

 傘男たちの数は、日を追うに従って増殖した。

 

 その様子は、文字媒体で伝搬し。

 その風景は、画像媒体で四散し。

 その状況は、映像媒体として拡散しながらネットの怪異譚と日々記憶された。

 

 傘男たちの存在は確かに不気味ではあったが、彼らが市民たちへ危害を加えることもなかった。背を向け、無言で佇むだけだったから治安の悪化にも繋がらない。むしろ、傘男たちを敵視する輩によって、市民としての傘男たちへ一般市民が危害を加えることも憂慮されたが、実際にはそんなことが起きることはなかった。

 それは、傘男たち以外の市民が傘男たちを恐怖したからの結果だった。

 治安が保たれている以上、傘男たち以外の市民たちが抱く不気味は理解してはいても市当局や警察も手出しが出来なかった。

 傘男たちは増殖し続ける。

 だが、不思議な事に傘男と言われるだけあって傘女が現れることは無かった。

            *

 駅から自宅への帰り道。

 歩道の端で背を向けて佇む傘男たちの数が、日を追って増えていく。

 いつか自分や中二の長男がそうなるのではないかと不安に慄きながら、歩道を急ぐ。

 一戸建ての自宅に到着し、玄関ドアを開けて出迎えた妻と長男、そして小学二年生の娘の無事な顔をみてホッとする。

 夕飯を囲む食卓。

 妻と娘は普段通り変わらず賑やかに話しをしながら夕飯の鍋を食べているが、長男の表情には不安と恐れとが滲み出ていた。

            *

 住んでいる町(Y市)に関するネットの噂話。

 

『あれって、Y市だけだろ』

『Y市の固有の風土病だって言ってる学者もいるぜ』

『マジ。ヤバくねぇ』

『最近じゃ、YCウィルスなんて言われてるらしいぜ』

『ウィルスだなんて。デマよ』

『でも、日々増殖してるしな』

『そうだとして、罹るのって男性だけでしょ』

『そうよ。女性のあたしたちには関係ないし』

『変異するってこともあるぜ』

『Y市の連中。来ないで欲しいよな』

『うち。Y市の隣町なんだよね』

「うぇ。感染するから退出しろよ」

『するかよ』

『常識ねぇーぞ』

『そう言うオタクこそ。Y市なんじゃねぇーの』

(暫くの間、炎上)

『封鎖しろよ。Y市』

『Y市の人たち出て来ないでッ』

『隔離。隔離ッ』

 

 この後、延々とY市排斥のコメントが続いて見るのを止めた。

            *

 夜。

 歩道から溢れ出すほどに傘男が増え始めると、市内の女性たちも怯え始めた。

 彼女たちは傘男たちに怯えて夜間の外出を控えるようになる。だが事はそれで終わらず、傘男化した同居人を嫌って女性や子供たちが町を離れ始めた。

 市外へと避難した女子供たちだったが、身を寄せた先で肩身の狭い思いをすることになる。偏見の眼差しや扱いを受けるだけならまだしも、行く先々で訪問を断られて生活に支障をきたす事も珍しくなかった。

 とりわけ災難だったのは子供達で、特に男子は黴菌扱いのいじめに遭った。

            *

 ある日、会社で仕事をしている妻からSNSが届いた。

 

『パパ。暫くの間、娘を連れて実家に戻るわ』

『えっ。娘だけ?』

『一緒に行こうと言ったわよ。でもあの子、ここに居るって頑固に言い張るの』

『無理にでも連れて行けよ』

『もう無理よ。だってあの子…』

『解った。俺、これから帰るよ』

『ええ。そうしてくれる』

『もう、あたしたち。行くから…』

 

 妙な胸騒ぎを覚えた。

            *

 気分は落ち着かなかったが、仕事が立て込んでしまい帰宅は夕方過ぎとなった。

 ターミナル駅のホームで電車を待っている時から、様子が変だった。

 普段なら帰宅ラッシュで混んでいるはずのホームに人が疎らにしか居ない。

 電車も座って帰れるほど空いていた。

 車窓を過る沿線の町並みを見るうち、妙な胸騒ぎを覚え始める。

 それは、自宅の最寄り駅に近づくにつれてどんどん膨らみ、やがて根拠のない不安へと変わって行った。

 電車を降りた時、ホームに居るのは自分一人だった。

 見上げると、夜空にぽっかりと満月が浮かんでいる。

 ホームの階段を昇り、改札を抜け、階段脇に設置された下りのエスカレーターに乗ろうとして足が竦んだ。

 

 …階下が透明なビニールで埋め尽くされている…

 

 エスカレーターを駆け下り、傘男たちをかき分け、家路を急いだ。

            *

 自宅前は傘男が埋め尽くされている。

そして開いた門の間から、彼らの一部が敷地内に入り込んでいた。

 必死で辿り着いた門の支柱から中の様子を覗うと、傘男たちの向う側、玄関扉の前に息子の後ろ姿があった。

 無我夢中で傘男たちを門の外へと締め出し、門を閉めた。

 彼らは騒ぐ様子もなく、門の外で透明なビニール傘をさして背を向けて佇んでいる。

 少しホッとして後ろを向き、自分に背を向けている息子の名前を呼んだ。

 返事は無かった。

 その代わり息子は、背を向けたまま透明ビニール傘の柄を自分に付き出した。

 戸惑いを隠せないまま傘の柄を見つめていたが、ふと顔を挙げて息子を見て叫び声をあげた。

 目に映ったものは、透明ビニール傘をさす息子の後ろ姿だった。

 腰を抜かしてその場にしゃがみ、後退りする自分の背中に何かが当たる。

 恐る恐る振り向くと、自分の目の前に無数の傘の柄が突き出されていた。

 

『早く握れよ』

 

 そんな声が、耳に木霊した。

            *

 その後、どのようにしてあの場から脱出したのかを定かに覚えていない。

 気がついた時、自分は妻の実家の玄関先に居た。

            *

 傘男の蔓延はY市に限定されているようだった。

 自宅に息子を置いて妻の実家に逃避したが、同居することは拒まれた。

 仕方なく別に部屋を借りて生活を始めた。

 息子は自宅で一人暮らしをしながら中学へ通っている。

 昼間の息子はごく普通な中学生で、リモートで会話をしている時も様子は以前と変わりないが、夜になると傘男となる。

 傘男騒動の煽りで家族がバラバラとなったが、オンラインでの団欒は欠かさない。妻は、リモート家族だなんて皮肉を言うが、案外気楽で好い。

これはきっと、未来の家族形態の一つに違いない。

 平穏な日々が淡々と過ぎた。

 でも、そんな奇妙だが居心地の好い暮らしはあっけなく終わりを告げる。

 立待ち月の夜。

 改札を抜け、駅前ロータリーへと続く駅ビルの出口。

 そこへ続く階段の最上段に至り、そこから階下を見下ろすや唖然となった。

 透明なビニール傘が階下を埋め尽くしている。

 

 …傘男か…

 

 そう思ったが、瞬時のちに違うと判った。

 傘をさしているのは、全員女性だった。

 

 …この町では、傘女なのか…

 

 佇む傘女たちの中に妻と娘の姿を見つけた時、私は思った。

 

 …さて。今度はどこへ逃げようか…

 

 

(END)

都・死瞬 TOSISYUN

      もう、詰んだ

 

 厳冬のある日の夜。パンデミックで仕事と住む家を失った若者が、駅前広場の片隅で商業ビルの壁面を飾る大型ビジョンに流れる映像を虚ろに見ていた。

 若者の名前は、瞬と言った。

 職は見つからず。

 貯金も底を尽き。

 住んでいたマンションも追い出されてマンガ喫茶を転々する日々。

 だがそれも、緊急事態宣言によって終わりを迎え、今ではホームレス同然の生活を送る境遇となってしまった。

 外出制限のため街を歩く人の姿は絶えて、多くの店のシャッターは閉まっている。ゴーストタウンさながらの町は、不気味な静寂の中に沈んでいた。

  ニュースによれと感染者数は増加の一途らしい。

 …それなら俺も感染して、隔離されようか…

 生きるためにそう考えもしたが検査を受ける金すらが無かったので、自分自身が発熱する日を乞うように待ち続けたが、彼の思い通りにはならなかった。それどころか例年よりも早く到来した大寒波が、路頭をさまよう瞬に厳冬の凍てつきを嫌というほど味あわせた。

 …もう人生詰んだ。死んだ方が楽か…

 ニュースでネットくじの当選金額が跳ね上がっていると流れた。当選者不在で当選金が繰り越され続けているらしい。その景気の好いニュースを、瞬は他人事のように眺めた。

 スマホのバッテリー残量も僅かだった。

 …充電切れで。もう誰とも繋がれない。俺もアウトだな…

 瞬は力なく笑うと、真空の夜空に浮かぶ三日月を見つめた。

 

      ラッキーかも

 

 スマホが振動する。

 …SNS。いまさらアクセスかよ…

 期待もなくSNSを確認すると『隻眼の客引き』名乗る人物からのメッセージだった。

 …誰だよ…

 普段なら100%ガン無視。

 …めちゃ怪しい…

 削除が当たり前だが、瞬はそうしなかった。

 …ひょっとしたら、今生最後の『繋がり』になるかもしれないしさ…

 そう思い直した瞬は、『隻眼の客引き』に返信した。

『誰?』

 速攻で返信。

『客引き』

『何の?』

『何でも』

『何それ』

『望は?』

『はぁ?』

『叶えてやるよ』

『あんた。頭。イカレちゃってるね』

『信じられない?』

『変だよ。あんた』

『試してみない?』

 瞬、苦笑い。

『そんじゃ。10万円くれよ』

『金ね。好いよ』

 瞬のスマホが震えた。

 口座残高ゼロのネットバンクから10万円の振り込みを伝えるメッセージ。

振り込み依頼人は『セキガンノキヤクヒキ』。

 …マジ。こいつヤバくねぇ…

 瞬の目に更なるメッセージが映る。

『ホテルも手配しようか?』

『はあ。どうして?』

『これからさ、氷点下になるからねぇ』

『えっ?』

『折角掴んだお客さんを凍死させられないしさ』

『掴んだ客って何?』

『千載一遇のですよ』

『あんたさ、マジ怪しいよ』

『客引きですからね』

『なら、金の無い俺なんか相手にするなよ』

 スマホ画面に7桁の番号とネットくじのURL。

『今話題のネットくじ。当選番号だよ。二人の、ヒ、ミ、ツ、ね』

 気づくと、奴は既にログアウト。

 その翌朝。

 瞬は大金持ちとなった。

 

      消去リセット

 

 瞬は、当選金で都心の一等地に建つ超高層ビルの最上階のコンドミニアムを買って住む。有り余る金で全てを手に入れ、贅沢の限りを尽くして日々を過ごした。幸運な当選者としてもてはやされて時の人となった瞬の周りには有象無象の人々で溢れた。夜毎繰り広げられるパーティーは瞬の王国だった。人も物も、全てを味わい尽くし、享楽の限りを満喫した末に瞬の心を強欲が忍び寄り、魅了し、やがてそれが彼を支配した。

 …もっと金を増やしたい…

 そんな瞬の欲望を見透かすかのように得体の知れない連中が彼を取り巻き始めた。彼らは瞬に近づいては言葉巧みに儲け話や投資を持ち掛け金を巻き上げる。そう振る舞うことに長け、あらゆる手練手管を知り尽くした連中は、瞬にとってたまらなく魅力的に映った。彼らの空虚だが甘露で緩急を心得た千金の言葉が瞬の強欲と虚栄をくすぐり、それらはまるで麻薬のように彼を蝕んでいった。

 一生かかっても使い切れないと思われた金は、彼らの訪問数に比例して減っていき、やがて瞬からむしり取る金が尽きると連中は姿を見せなくなった。今はもう彼に近づく人間はおろか、手を差し伸べて助けようという人すらいなくなった。

 物もなくがらんと殺風景な空間となったリビングルームの真ん中で、夕陽に照らされて赤く染まる高層ビル群をぼんやり見つめていると、瞬の前に大勢の男たちが突然現れた。

「出て行け」

 瞬は全てを失った。

         *

  ターミナル駅前広場の一角に腰を下ろして途方に暮れる瞬のことなど、雑踏は無関心に行き交い過る。

 雲ひとつない冬の青空の下、広場を囲む商業ビル群は額縁のようにくっきりと並ぶ。

 瞬の破産と失踪を伝えるテロップが大型ビジョンの片隅で流れた。

 瞬のスマホが震えた。

 SNSに隻眼の客引きからのメッセージが届いていた。

『ネットくじ。7桁の当選番号だよ』

 彼はそれを凝視する。

『瞬くーん。死んじゃダメだからね』

 そして、ゾッと身震いした。。

          *

 年末の夕方、ターミナル駅前広場は大勢の人出で賑う。

 行き交う人々の表情には年越しを迎える準備の慌しさと、新しい年を無事に迎えられる安堵とが入り混じっていた。

 大型ビジョンで流れるワイドショーでは、謎の大金持ちによる巨額の寄付に関する話題でもちきりだった。

 瞬は広場の片隅に腰を下ろし、呆けた表情でそのワイドショーを眺めた。

 瞬のスマホが震えた。

 隻眼の客引きからのメッセージが届く。

『有り金。全部寄付しちまうとはねぇ』

 瞬、ノーコメント。

『瞬ちゃん。思い切ったね』

 瞬、無視。

『時間。有るよね』

『?』

『電話するから』

『誰に?』

『もちろん、瞬ちゃん。ちゃんと出てね』

 間髪入れず電話が掛かってきた。

「瞬くんかい。初めまして」

「は、はじめまして…」

「意外と低い声なんだ。やっぱりリアルだよね」

「どうして僕の番号を?」

「何でも知ってるさ。何でもできる立場だからね」

 …客引きって、そんなに偉いのかよ…

「でも寄付は予想外だったなぁ。理由が知りたくて電話しちゃった」

「そんなこと。SNSで良かったんじゃ?」

「肉声なら気持ち解かるしね」

「単純な理由ですよ」

「単純?」

「金を自分の思い通り使ってみたくなったからです」

「そんな理由?」

「意に添わぬ浪費に明け暮れ、大半の金を他人に騙し取られましたから。自分の思い通り金を使って、連中を出し抜いてやろうと思ったんです」

 隻眼の客引きは笑った。

          *

「瞬ちゃんって面白いね。またお金、あげるね」

「もう要らない」

「えっ。要らないの?」

「人が群がって来るだけ。金よりもあんたの『力』が好い。人を操れるし」

「増々面白いよ。今、住所送るね。明日そこで会おう」

 電話は切れ、瞬の元に住所が届いた。

 

      扉の内と外で

 

  凍える雨の降る朝、瞬は待ち合わせの場所へ向かっている。

 両側を犇き合うように立ち並ぶ居酒屋に挟まれ、路地裏の迷路の趣きの道を歩き続けた。数時間で正午となるが、どの店にも酔客で溢れていた。

 大半の酔客は瞬を無関心に無視するが、ふと目が合うと虚ろと敵意の混じった目つきで彼を睨む。曖昧だが殺気めいた気配に怯えながら、瞬は足早に先を急いだ。

 視界が開けて猥雑な小道から広い通りに出ると鎮守の森が見えた。

 雨は、霙混じりへ。

 寒さは身に染みたが、瞬は濡れる森の瑞々しさにホッとさせられる。

 隻眼の客引きは既に来ていた。

 彼は、いわゆる一般的な客引きのイメージとは全く違っていた。

 遠目にも高級とわかるカシミアのコートに身を包み、鹿革の黒い手袋を嵌めた右手で傘を差し、左手をコートのポケットに挿し入れて古い雑居ビルの前で佇んでいる。黒い眼帯が無ければ、彼がその男だと判らなかったに違いない。

 出会いの後、隻眼の客引きは瞬をビルの地下にある部屋の一番奥にある鉄の扉の前に連れて行くと言った。

「頼みを叶えてくれたら『力』をあげるよ」

「頼み?」

「この扉の向こう側から、ある物を取ってきて欲しいんだ」

「ある物?」

「『愛』だよ。今さ、一番欲しい物なんだよね」

 隻眼の客引きは扉を開いた。

「さっ。『力』欲しいでしょう。行って来て」

          * 

 瞬が勤めていた会社の近くにさり気なくお洒落で感じが良く、居心地も好くて落ち着けるコーヒーショップがあった。

 営業回りを終えて会社に戻る途中、この店でコーヒーを飲んで一息つくのことが、いつしか瞬の日課となっていた。

 12月のある日、会社に戻る途中で瞬は雨に遭った。

 鞄を傘代わりに走って会社へ向かう道中で瞬は、そのコーヒーショップに駆け込んだ。頭や服をハンカチで拭いていると、店員が温かいおしぼりを差し出した。

「ありがとう」

 おしぼりの温かさは冷え切った瞬の身体を芯から解きほぐしてくれるようだった。

「こちらも」

 乾いたタオルを受取った瞬は、彼女の顔を見てハッとする。

 それが瞬と菜々の出会いだった。

 クリスマスイブの夜、瞬は菜々にプロポーズをして二人は結婚した。

 二人の生活は単調で平凡で刺激も少なかったけれど平穏で心休まる日々だった。

 やがて二人に娘の陽菜が生まれた。

 娘が二歳の時、瞬の一家は郊外に買った中古の庭付きの家に移った。

 庭に桃の木があり季節になるとたくさんの花実であふれた。その世話をするうち収穫の喜びを知った菜々は、家庭菜園を始めた。

 全てが順調で、瞬は幸せに満ちあふれていた。

 

      幸せ死遭わせ

 

「残業入ってさ。家に着くのは8時頃かな」

「そう。クリスマスケーキは陽菜と二人で取りに行くわね」

「ごめんな」

「お仕事頑張って」

「ありがとう」

「陽菜がお話したいって」

「パパ?」

「パパだよ」

「パパ。はやくかえってきてね」

「うん。陽菜はママと良い子で待っててね」

「ひな、パパがだいすき」

「パパもだよ。また後でね」

 電話が切れる。

 瞬は、待受け画面の妻と娘の顔写真を愛おし気に見つめた。

          *

 瞬は、駅前ロータリーでバスを待っていた。

『駅のバス停。8時前かな』

 妻へSNSを送ったが、珍しく未読のままだった。きっと準備で忙しいのだろうと思い、瞬はスマホをしまった。

バス待ちで前に並ぶ高校生たちの会話を何となく彼の耳に入ってきた。

「マジかよ」

「どうした?」

「うちの近所で殺人事件が起きたって」

「えっ。それヤバくねぇ?」

          *

 殺人事件の話をしていた高校生は、瞬と同じバス停で降りた。

 妻へのSNSは、相変わらず未読のままだった。

 胸騒ぎがして瞬は駆け出す。

 騒然とする自宅前。

 野次馬たち。

 パトカーの赤灯。

 警官たち。

 制止を振り切り、瞬は家に入った。

 潰れたケーキ。

 その横で娘を下に惨殺された二人の亡骸。

「菜々。陽菜ッ」

 瞬は、何度も絶叫した。

 

      桃の花園にて

 

 鉄の扉の前で呆然と座っていたことに気づきいた瞬は、悪夢を見ていたと思った。

「愛を失ったか…」

 瞬、ハッとして振り向く。

 隻眼の客引きは、冷たい視線を彼に向けながら更に言った。

「全て扉の向うの世界で起きた現実だよ」

「う、嘘だろ」

「本当さ」

「いっ、嫌だッ」

 瞬は、妻と娘の名前を叫びながら鉄の扉を開けようとする。

「その扉は、もう君のために開くことはないよ」

「俺を。扉の向うの世界へ戻してくれ。頼む。お願いします…」

 隻眼の客引きの腰にしがみつき、瞬は懇願する。

 隻眼の客引きは瞬を引き離すと言った。

「できない」

「嘘だ」

「本当なんだ」

「俺を戻したような『力』があるじゃないか」

「人生は一度切り。誰にも、それは変えられないんだ」

         *

 隻眼の客引きは、鉄の扉を前に悄然と座る瞬の耳元で告げた。

「お別れだね」

「…」

「神社の境内を抜けると『桃花』ってコーヒーショップがあるから。行くと良いよ…」

 それを最後に隻眼の客引きの気配が消えた。

         *

 晴れて空気が暖かい。

 境内を囲む木々も清々しい。

 だが、参道を歩く瞬は虚ろだった。

 彼は『桃花』に入った。

「いらっしゃいませ」

 挨拶をする店員を見た瞬は、涙を流しながら言った。

「菜々…」

 

      まだこれから

 

 無数のベッドが並んだ白い殺風景な部屋で、機器に繋がっている何本ものチューブを頭や腕に挿し込まれてベッドに眠る瞬を、二人の男たちが見ていた。

 瞬の眦から一筋の涙が流れると、隻眼の客引きが指先でそれを拭いながら言った。

「所長。この素材は如何ですか?」

「最高の素材だよ」

 所長と呼ばれた白衣の男は上機嫌に話し続けた。

「喜、怒、欲、悪、哀。全てのエキスが豊富に採れる。『愛』が採れないのは残念だが」

「それならご心配には及びません。『愛』なら無尽蔵に絞り採れるようになりますよ」

 やにわに瞬が、寝言で女性の名を言った。

 幸せに満ちた瞬の寝顔を見て二人は、静かに微笑んだ。

 

(END)